今日の地元紙に載っていた記事

2011年04月15日 14時46分48秒 | 日記

今日の地元紙に載っていた記事の全文です。

『今日だけは泣くよ』

俺はとうちゃんだから。 泣くのはやめよう。 そうきめていた。

岩手県釜石市のSさんは震災から1カ月経って、ようやく亡くした長男N君(18)の想い出に浸ることができた。

普段は泣けないから。 毎月この日だけは兄ちゃんのことを思い出して泣くよ。

 ダウン症だったN君は12歳から特別支援学校の寄宿舎に入っていた。

自活する力を身に付けてほしかったから。

震災後、火葬場でN君だけの卒業式をした。「卒業したら ちゃんと働きたい。」

特別支援学校の校長から手渡された夢。 

卒業証書と共に持ってきてくれた。 誰かが「おめでとう」と声をかけてくれた。

それで十分だった。 自分も声をかけたらきっとがまんできない。

 3月に入りインフルエンザの流行で学級閉鎖になり、

久しぶりに根浜海岸に近い自宅に戻ってきたところだった。

あの日、すぐに津波が来るとわかった。

避難した高台から防潮堤をやすやすと乗り越えてくる津波を見てぞっとした。

夕方、水が引くのを待って自宅に戻った。家は崩れ内陸側に100メートル流されていた。

近所の人から近くの避難所に家族がいると聞き、合流した。

N君の顔だけがなかった。

寒い日だった。「早く助けてやんねえと」。夜がれきをかき分け隙間を照らす。

一時間ほど作業を続けた。 白く冷たくなったN君を見つけた。

高台に連れて行った。息をしていないのは分かってる。

それでも何とかしてやりたいと思い泥をぬぐい、服を着替えさせた。

「明日になったら病院に連れて行ってやっかんな。」

答えてくれないN君の隣に座り一晩中泣いた。

 泣いたのはそれっきりだった。

家族がいる。俺は家長だ。父ちゃんだ。泣くわけにはいかなかった。

生きて行くための煩雑な手続きで時間はあっと言う間に過ぎた。

 震災から一カ月経った4月11日午後2時46分。

釜石の隣にある大槌町の城山公園に上った。

津波に飲まれた街を見下ろしN君との想い出に浸ることを初めて自分に許した。

寄宿舎で使っていたハブラシを手にしてみた。

ゆがんでいたがしっかりした字で名前が書いてある。

無口で意志が強く一度決めたことは曲げなかった。

18年間生きてくれた。 ありがとう。

一カ月ぶりに思いっきり泣いた。

 明日から、また前を向かなくてはいけない。

でも毎月11日だけは泣いてもいいだろう。

誰にも見られない、この場所なら。

 

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この記事のすぐ隣に 「放射線がうつる」 と

避難児童いじめと言う記事がのってました。

お願い優しい心で接して

沢山 傷ついているの。

どうかお願い  

 

  今日の ありがとう 

この記事を読んで 沢山泣いてしまいました。

今、ここにこうしていることができる自分に感謝します。

立場が逆であったら、どうだったろうって思います。

私は私の出来る事をこれからもやって行こうと決めました。