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庭師のブログ アイヌの天才少女 知里幸恵

2023年02月06日 | 日記
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知里幸恵

ウポポイの敷地にある。国立アイヌ民族博物館で、一通り展示を見て回った後、2階の特別室で「知里真志保展」が開催されていたので、それも見に行きました。むろん初めて聞く名前で、たぶんアイヌ研究か何かの偉い人だろう、くらいに思っていました。

陳列ケースの中には、ハガキなど、当時のやり取りを書いたものが展示してあったので、そこで足をとめました。ハガキには、英語のようなものが小さな字で、びっだり書かれていました。説明には、真志保の姉が弟の自分に宛てて書き送ったものだそうです。字が小さいのでよく見ようと思って、ガラスケースに手をついて、のぞき込んでいたら、係員が飛んできて、ガラスに触らないよう、注意されました。

「この真志保さんのお姉さんという女学生は、まだ小学生の弟に英語で手紙を書いていたのですか」

、と係員に尋ねました。

手紙をのぞき込んで、係員の女性は、

「そうみたいですね」。といいました。

前日、北海道大学博物館で見た、内村鑑三、新渡戸稲造、宮沢金吾など、クラーク博士の開いた札幌農学校(現北大)の二期生たちが、互いに英語で文通していた様子を展示室で見ていたので、当時は、英語で手紙をやり取りするのが、一部の人の間で流行っていたのかなと思いました。

係員の人がいなくなってから、もう一度ハガキの字をながめてみました。

筆記体で書かれたアルファベットは、英語ではなく、ローマ字で書かれた日本語でした。

その時、ローマ字を書く、アイヌの少女、「知里幸恵」という人物に、強く惹かれました。

彼女は19歳で亡くなるのですが、最後の4か月間は、言語学者、金田一京介博士の自宅でアイヌの叙事詩ユーカラをまとめ上げたのでした。彼女の記憶力は、博士も驚くほどで、初めて聴いた長時間のユーカラを、すべて記憶し、博士の研究に貢献したそうです。

原稿の最後の校正を終えたその日の夜、持病の心臓が動きを止め、旭川の家族のもとに帰る予定もかなわず、彼女は息をひきとりました。

私が書くと、味もそっ気もない話になってしまいましたが、当時のアイヌの人たちが受けていた差別や不当な扱いが当然だった背景を考えると、アイヌの誇りでもある伝承文学を自分が残していかなければという思いで、病を隠して頑張り続けた20歳にも満たない少女の功績は、多くの人の共感を呼びました。

彼女が亡くなった後、多くの人の手によって、ユーカラは次々と、文字によって、記録されていきました。

しかし、彼女がいなければ、何百年と口伝えで語り継がれ、唄われてきたユーカラは、文字として記録に残ることなく、途絶えていたことを思うと、彼女の存在は大変大きなことだったといえます。

彼女の生家である登別に、「銀のしずく」という記念施設があり、彼女の功績をしのんで毎月のようにイベントが催されているとのことです。

因みに、小学生だった例の弟、知里真志保は、金田一博士の勧めで、アイヌ人で初めて東大に入学、後に北海道大学の教授となり、アイヌ文化の研究で多くの功績を残したそうです。

彼女は、本になったアイヌ神謡集(岩波書店)の「序文」の中で、アイヌの人たちに伝わってきた、神々と自然の物語を、書き残したいという気持ちを強く述べています。本当の豊かさを見失った私たちの胸に、突き刺さるような名文でした。

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