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庭師のブログ(30) ジュラシック庭園 

2018年05月31日 | 日記
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第30話 福井恐竜博物館


JR福井駅に現れた恐竜

フクイティタン 福井で発掘された竜脚類の恐竜



福井から帰ってから、こんな計算をしてみた。

地球が46億年まえに誕生したとして、それがどのくらいの長さかを、東名高速道路に置き換えて計算してみた。

東京を出発した地球は、しばらくは何も住んでいない高温の世界だったが、小田原あたりからアメーバが出現、豊橋を通過するころは、海中に変な形をした生き物が数多く現れ、やがてそれらに脚や、目、口がついてきて、生存競争らしきものが始まるのである。

岡崎から豊田にかけて、生き物は急速に進化を続け、魚のようなものは、足が4本生えて、植物の生い茂る陸に上がってくる。

そして、三好から長久手インターでは、恐竜が大繁殖、ジュラシックパークの世界となる。

名古屋インターに近づくころ、哺乳類が出現、名古屋インター500mの表示で、やっと人間の祖先となるゴリラみたいなのが出てくる。そして、料金所の15m手前で、今の人間、ホモ・サピエンスがアフリカの地で生まれた。

やがて、ホモ:・サピエンスは日本にもやってきて、料金所の1mほど手前の縄文時代では、土器までつくるようになった。

そして、今年で100歳になる山本さん(仮名)が生まれたのは、なんと、料金所の8ミリ手前であった。

小学生向きの図鑑を買ってきて、やっとここまでわかった。

わからないのは、この後の8ミリ先の地球が、どうなっているのだろうかということである。まあ、こういうことは、考えないことがいいのかもしれない。




恐竜の成長速度の模型。左端から卵から出てきて20日、次に40日、半年、3年と急速に大きくなる。そして7年で数10トンの、首としっぽの長い、あの巨大な恐竜になる。人間7歳なら、まだ小学1年生だというのに・・・












ジェラシック庭園なるものをデザインしてみた。

4億年前から始まる中世期には、多くの植物が地上に繁茂していた。それらの植物の多くが、化石として出土し、分類学者によって同定され、現在の生物同様、名前が付けられている。

そのほとんどは、絶滅したが、今もなお生き残っている動植物がある。「それらは、生きた化石」と呼ばれている。

中生代のジュラ紀は、6200万年ほど続くが、恐竜が暴れまわった前半は、裸子植物の時代で、花の咲く植物はまだ地球上にはなかった。

高木もあったが、私の想像では、地表はソテツで覆われていた。(沖縄・大石林山)ソテツの幹はサクサクとしておいしそうだし、食べ残しからも、どんどん再生してくる、恐竜にとってはありがたいバイタリティーのある植物だ。こうして草食恐竜が増えると、ティラノザウルスのような獰猛肉食恐竜もあらわれ、地上は大変にぎやかになる。

この時代の生き残り植物を使って、庭ができないか考えてみた。

博物館のように、当時の自然を再現しているわけではなく、あくまで庭として考えているので、土台になるのは、私が作れば当然和風庭園となる。灯篭も、飛び石もある。小さいけど池の周りを回遊できる防草土で固めた小道がある。庭を訪れた友人と記念写真を撮るスポットも作った。

基本は、ソテツの群落。それと、豊富なシダ類が、庭に静寂と潤いを持たせる。循環装置を使って、溶岩の間を流れる小川をつくり、浅い池に流し込む。池には、ハスを浮かべ、魚の代わりにイモリを放つ。

庭の背景には、イチョウや、メタセコイア、コウヤマキなどの高木を植えて、ジュラシックガーデンは完成する。


ティラノザウルスが孵化するフィギュアが、既にインターネット上で市販されている。この程度なら、庭に愛嬌をそえて、いいのではないかと思って描きこんだ。(橋を渡った左手のシダの茂みの中にいます)

たぶんこのような庭を造ってほしいという依頼はないだろうから、こうして画面上でつくって楽しんでいきたいと思った、ある暑い夏の一日でした。

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庭師のブログ (29)「無」

2018年05月13日 | 日記
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(第29話)鈴木大拙記念館

日本の庭園は、枯山水の庭園にみられるように、禅の影響を色濃く受けている。

と聞いて、若かった私は、さっそく本屋で禅の本を買ってきた。
岩波新書の「禅と日本文化」という本である。

著者は、鈴木大拙で、もともとは外国人向きに英語で書かれていたのだが、禅について平易に書かれた本だったので、日本人にも読んでもらおうと、誰かが日本語に訳した本なのであった。

この鈴木大拙記念館に来て知ったのだが、彼の禅や、仏教や、東洋思想についての膨大な著作は、ほとんど英語でかかれていたという。


当時、二本松造園に、H君という、陶芸家をめざす若者が働いていた。H君は、理屈をこねるのが好きで、私が本の受け売りで禅について語ると、すぐに話に乗ってきた。

私は、改まった顔で、H君に問うた

「無とは、ありやなしや」

「ありや」
彼は.即答した。

「何処にありや」
重ねて、問うた。少し考えて、H君は言った。

「無の中に、ありや」

いまだH君の名を聞かないところを見ると、陶芸の道で名を成すのは厳しいのだろう。


さて、金沢が輩出した鈴木大拙師は、たいへん偉い人だということを、あとで知った。

海外での講演も数知れず、英語のできる仏教学者というより、むしろ、日本語もできる学者というくらい英語に堪能だったようだ。

95歳まで、講演で世界を駆け回っておられた由、同じ駆け回ったと言っても、ハワイの庭をちょこちょこっと歩いた凡人庭師の私など、足元の爪先にも及ばない。師は、私にそっと耳打ちされる。

「無」


鈴木大拙館 水鏡の庭

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