これにて、私の日差山での毛利家の武将と安国寺恵瓊とのやり取りの一部始終のお話を終わります。何も資料がない中の、それらしき風情を盛り込んだ物語作りが、いかに大変だと言う事が分かります。でも、どうにか、ごちゃごちゃと、同じことを何回も繰り返しながら、また、我ながら拙い文だと思いながら、厚顔無恥に書き綴ってみました。結局、なんだかんだと思いながらも、9000字程の私の物語?????に作り上げました。
途中で、男女共同参画社会ですから、この物語にも女性の登場をと、思ったのですが、取り上げる場がなく、なんだかさみしいお話になってしまいました。女の人が、もしお読みくださったなら、きっと、ひどいお叱りを受けるのではないかと云う不安も多少は私の心の中に行き来したのですが。高松城への泥水が押し寄せる場面で、いざという場の女性の強さの声があってもいいかなとも思ったのですが、何だかこの場にはに似つかわしくないように思えて、取り上げませんでした。また、明日を知れない運命を背負った城内の若い男女の秘めた色恋でも絡ませるのも面白いのではとも考えてみたりもしたのですが、余りにも、宗治の神聖な切腹に対して不敬の影を濃くするのではと思い遠慮させていただきました。そんな意味で、男性だけの世界のお話になった次第です。いつか、またの機会に、此の時の高松城の女性たちについて筆を動かしてもいいかなとも思っていますが、どなたかお書きになられませんか。
なお、他の4,5編はあると思われる太閤記では、この高松城の水攻めに、この安国寺恵瓊なる人物を登場させてはいません。しかし、この絵本太閤記には、どうしてだかは分かりませんが、きちんと登場していて、その活躍が画かれています。
又、これも嘘か誠かは分からないのですが、一説によりますと、我が町吉備津が板倉宿として山陽道の宿場町になったのは、秀吉軍が朝鮮出兵、あの文禄慶長の役の時からだと云われています。この板倉の宿場は、この安国寺恵瓊が、豊臣軍が、朝鮮に出兵時の宿舎の場所として新たに設け、それ以前から山陽道の宿場町として栄えていた備前辛川(岡山市一宮)にあった宿屋などの施設など根こそぎ板倉に移して、新しい宿場町を作ってつたと云われています。その理由は、それまであった辛川の旧施設では、派遣する兵士を収容しきれなかったからではないかと云う人もいますが、宮内にあった遊郭が、その一番の原因ではなかったのかと、言う人もいるようです。
それはともかくとして、それ以降、この二つの町は大変仲が悪く、その気風は現代まで引き継がれ、何に付けても二つの町は、非協力的であると言う人も、我近辺にはおられるようです。
でも、この安国寺恵瓊と云う人の名前ですが、今は、誰もが踏みさえしないような陽炎か影法師のように、我が吉備津には残ってはいません。と云うよりも、完全に消えさって、それを語る人も誰一人いないようです。
途中で、男女共同参画社会ですから、この物語にも女性の登場をと、思ったのですが、取り上げる場がなく、なんだかさみしいお話になってしまいました。女の人が、もしお読みくださったなら、きっと、ひどいお叱りを受けるのではないかと云う不安も多少は私の心の中に行き来したのですが。高松城への泥水が押し寄せる場面で、いざという場の女性の強さの声があってもいいかなとも思ったのですが、何だかこの場にはに似つかわしくないように思えて、取り上げませんでした。また、明日を知れない運命を背負った城内の若い男女の秘めた色恋でも絡ませるのも面白いのではとも考えてみたりもしたのですが、余りにも、宗治の神聖な切腹に対して不敬の影を濃くするのではと思い遠慮させていただきました。そんな意味で、男性だけの世界のお話になった次第です。いつか、またの機会に、此の時の高松城の女性たちについて筆を動かしてもいいかなとも思っていますが、どなたかお書きになられませんか。
なお、他の4,5編はあると思われる太閤記では、この高松城の水攻めに、この安国寺恵瓊なる人物を登場させてはいません。しかし、この絵本太閤記には、どうしてだかは分かりませんが、きちんと登場していて、その活躍が画かれています。
又、これも嘘か誠かは分からないのですが、一説によりますと、我が町吉備津が板倉宿として山陽道の宿場町になったのは、秀吉軍が朝鮮出兵、あの文禄慶長の役の時からだと云われています。この板倉の宿場は、この安国寺恵瓊が、豊臣軍が、朝鮮に出兵時の宿舎の場所として新たに設け、それ以前から山陽道の宿場町として栄えていた備前辛川(岡山市一宮)にあった宿屋などの施設など根こそぎ板倉に移して、新しい宿場町を作ってつたと云われています。その理由は、それまであった辛川の旧施設では、派遣する兵士を収容しきれなかったからではないかと云う人もいますが、宮内にあった遊郭が、その一番の原因ではなかったのかと、言う人もいるようです。
それはともかくとして、それ以降、この二つの町は大変仲が悪く、その気風は現代まで引き継がれ、何に付けても二つの町は、非協力的であると言う人も、我近辺にはおられるようです。
でも、この安国寺恵瓊と云う人の名前ですが、今は、誰もが踏みさえしないような陽炎か影法師のように、我が吉備津には残ってはいません。と云うよりも、完全に消えさって、それを語る人も誰一人いないようです。