宗治の切腹後に、秀吉は、早速、毛利家と和睦を結び、直ちに、京へ信長の弔い合戦の為に引き返します。
此の時、秀吉の行動について、あの湯浅常山の「常山紀談」には、岡山の浮田秀家に手紙を送って、
「まず、岡山城に立ち寄り、そこで、光秀との弔い合戦の計画を練るから、よろしく頼む」
と、伝えたのだそうです。
しかし、その岡山に、もし光秀と心を通じた者がいたらと、これも万一の事を考えて、俄に「霍乱(かくらん=日射病)」ーそうです。今年特に多かった熱中症ですーになって立寄る事が出来ないと通知して来ます、それを受けて浮田秀家は急遽使いを送り見舞いを寄こします。その使いには
「秀吉侯は、只今霍乱にて吐瀉して寝入り候」
と、伝えてます。
その間に秀吉は「奥州驪」と云う名馬に乗って、この「驪」は「くろ」と読まれ、その毛並みが真っ黒で、将に、精悍そのままの馬をそう呼んでいたと言う事です。吉井川を渡り片上を過ぎ宇根に馳せ付けていたのだったそうです。それを知って浮田の人々、ただただ「皆あきれけるぞと」有ります
なお、此の常山紀談には、
「秀吉六月七日の明け方より高松より引き返し、午の刻ばかりに宮内に着きて」と書かれていますが、この明け方を「明け六つ」と仮定しても、たった一里程度の距離を六時間もかけて着くというのはどう考えてもおかしいのです。前の「奥州驪」と云う名馬で、岡山の城下を通り抜けるのにか掛かった時間との関係からも怪しげな臭いが立ち込めるのですが。?そうです。同じ六時間程度かけて午前中には1里しか進まなかったものが、午後には、なんと25里も掛け抜けて、船坂山を過ぎ、播磨の国の宇根と云う駅まで駒を進めています。驚きという事を通り越して、おかしげなこととしか言いようがありません。しかし、ここでは秀吉の秀吉らしい事をしております。それは
「使いを岡山にやりて急ぐ事の候て、脇道を通りて過ぎ候ひぬ」
と、わざわざ、岡山城の浮田に知らせていることです。
なお、浮田(宇喜田)秀家は、ご存じのように、後に豊臣秀吉の五大老の一人になった人です。
でも、此処に記されている、昼頃、秀吉が我が吉備津の「宮内」に着いたと云う事が真実ならば、多分、これは、この記述にはないのですが、毛利氏との戦いに勝利報告を兼ねたお礼参りと、これから行う明智光秀との信長の弔い合戦に対する戦勝祈願を、吉備津神社で行ったのではないかと、推測されます。しかし、是も、誠に残念なことですが、そんな記録は吉備津神社関係の文献では見当たりません。
常山紀談にある「秀吉浮田を欺きて上洛のこと」を読んでみるも、どうも随分いい加減で怪しけな感じがするのですが。それは、先の佐柿弥左衛門入道常円の物語を見ても十分証明が出来ると思われます。
此の時、秀吉の行動について、あの湯浅常山の「常山紀談」には、岡山の浮田秀家に手紙を送って、
「まず、岡山城に立ち寄り、そこで、光秀との弔い合戦の計画を練るから、よろしく頼む」
と、伝えたのだそうです。
しかし、その岡山に、もし光秀と心を通じた者がいたらと、これも万一の事を考えて、俄に「霍乱(かくらん=日射病)」ーそうです。今年特に多かった熱中症ですーになって立寄る事が出来ないと通知して来ます、それを受けて浮田秀家は急遽使いを送り見舞いを寄こします。その使いには
「秀吉侯は、只今霍乱にて吐瀉して寝入り候」
と、伝えてます。
その間に秀吉は「奥州驪」と云う名馬に乗って、この「驪」は「くろ」と読まれ、その毛並みが真っ黒で、将に、精悍そのままの馬をそう呼んでいたと言う事です。吉井川を渡り片上を過ぎ宇根に馳せ付けていたのだったそうです。それを知って浮田の人々、ただただ「皆あきれけるぞと」有ります
なお、此の常山紀談には、
「秀吉六月七日の明け方より高松より引き返し、午の刻ばかりに宮内に着きて」と書かれていますが、この明け方を「明け六つ」と仮定しても、たった一里程度の距離を六時間もかけて着くというのはどう考えてもおかしいのです。前の「奥州驪」と云う名馬で、岡山の城下を通り抜けるのにか掛かった時間との関係からも怪しげな臭いが立ち込めるのですが。?そうです。同じ六時間程度かけて午前中には1里しか進まなかったものが、午後には、なんと25里も掛け抜けて、船坂山を過ぎ、播磨の国の宇根と云う駅まで駒を進めています。驚きという事を通り越して、おかしげなこととしか言いようがありません。しかし、ここでは秀吉の秀吉らしい事をしております。それは
「使いを岡山にやりて急ぐ事の候て、脇道を通りて過ぎ候ひぬ」
と、わざわざ、岡山城の浮田に知らせていることです。
なお、浮田(宇喜田)秀家は、ご存じのように、後に豊臣秀吉の五大老の一人になった人です。
でも、此処に記されている、昼頃、秀吉が我が吉備津の「宮内」に着いたと云う事が真実ならば、多分、これは、この記述にはないのですが、毛利氏との戦いに勝利報告を兼ねたお礼参りと、これから行う明智光秀との信長の弔い合戦に対する戦勝祈願を、吉備津神社で行ったのではないかと、推測されます。しかし、是も、誠に残念なことですが、そんな記録は吉備津神社関係の文献では見当たりません。
常山紀談にある「秀吉浮田を欺きて上洛のこと」を読んでみるも、どうも随分いい加減で怪しけな感じがするのですが。それは、先の佐柿弥左衛門入道常円の物語を見ても十分証明が出来ると思われます。