“そろり”と刀が鞘に入ったから曾呂利と姓を付けたとしゃあしゃあと言った新左衛門に、「又、折節来らるべし」と秀吉も言います。そして、他日太閤に謁します。その時、秀吉は新左衛門に言います。
「お前さんの姓名は何と云うか」
と。すると、
「曾呂利々々々新左衛門々々々」
と、答えます。すると、秀吉は、随分、怪しみて
「如何して、そんなに同じことを重ねて言うのだ」
と尋ねられます。。
「そうです。殿下は先に臣の姓名を問い、今、また、重ねて問う。故に、臣も殿下の重問の意(こころ)に従いて、同じく重問を持ってお答えしたのです」
よく分からないのですが、世間を唸らせた頓智者として名を馳せたあの新左衛門も、こんなもんだったのでしょうか。これだけの話からだと、そんない大した頓智ではないようにも思えるのですが、どうでしょうかね。
でも、このように彼の頓智話が有名になり、一人歩きをしているのですが、実際には、この「曾呂利新左衛門」と云う人は、この世には存在してはいなかったのではないかと云われています。
なお、「曾呂利新左衛門」と云う人の名前を、先に挙げた「絵本太閤記」の中からも探したのですが、何処にもその名前は見当たりません。そうすると、後世の人が、架空の人物として、面白ろおかしく物語を読ませるために、本来の太閤記とは違った興味本位の読み本「太閤記」として、勝手に創り上げた人物の可能性の方が高いのではと思われます。
そんな人物を何故、湯浅常山が取り上げて書いたのかは分かりません。
と、云う事は、この「常山紀談」の記事も、正式な歴史書として取り扱うには、随分と怪しいいい加減な所もあるのではないかと思われます。まあ当時は、「こんな話も、世の中には、噂として言い伝わっていたのですよ」言うぐらいの軽い気持ちの読み物だったのではなかったのでしょうか。あれだけ多くの人物の歴史的業績を取り上げながらも、「常山」という名前が日本歴史の中にも入っていないと言う事は、書き残した資料に、歴史的真実性が乏しく、かつ、薄いと云う事に原因があるのではないでしょうか。
すばらしい史的事実資料の収集の才能を持ちながら、余り江戸期の人からも注目されなかったもう一つの原因として、調べて入手した資料を時間的に配列していたならば、もっと注目されているのではと思われますが、そんなことは一切無頓着に、入手できた資料を、古きも新しきも、お構いなしにごちゃごちゃに並べられています。そのために歴史書としては多くの人から軽視され、或いは無視されたのではないかと思われます。
そんな意味で、この湯浅常山と云う人は、その研究実績に比べ、あまり人々から注目されなかった、どちらかと云えば、不遇に終わった人ではないかとも思われます。そのことを本人はどう思っていたかは分からないのですが????案外、物事にあまり頓着しない典型的O型人物だったのではないかと想像しています。どうでしょう??????
せめて、AB型の人であったならば、もう少し彼の歴史的評価が高かったのではと思えます。
「お前さんの姓名は何と云うか」
と。すると、
「曾呂利々々々新左衛門々々々」
と、答えます。すると、秀吉は、随分、怪しみて
「如何して、そんなに同じことを重ねて言うのだ」
と尋ねられます。。
「そうです。殿下は先に臣の姓名を問い、今、また、重ねて問う。故に、臣も殿下の重問の意(こころ)に従いて、同じく重問を持ってお答えしたのです」
よく分からないのですが、世間を唸らせた頓智者として名を馳せたあの新左衛門も、こんなもんだったのでしょうか。これだけの話からだと、そんない大した頓智ではないようにも思えるのですが、どうでしょうかね。
でも、このように彼の頓智話が有名になり、一人歩きをしているのですが、実際には、この「曾呂利新左衛門」と云う人は、この世には存在してはいなかったのではないかと云われています。
なお、「曾呂利新左衛門」と云う人の名前を、先に挙げた「絵本太閤記」の中からも探したのですが、何処にもその名前は見当たりません。そうすると、後世の人が、架空の人物として、面白ろおかしく物語を読ませるために、本来の太閤記とは違った興味本位の読み本「太閤記」として、勝手に創り上げた人物の可能性の方が高いのではと思われます。
そんな人物を何故、湯浅常山が取り上げて書いたのかは分かりません。
と、云う事は、この「常山紀談」の記事も、正式な歴史書として取り扱うには、随分と怪しいいい加減な所もあるのではないかと思われます。まあ当時は、「こんな話も、世の中には、噂として言い伝わっていたのですよ」言うぐらいの軽い気持ちの読み物だったのではなかったのでしょうか。あれだけ多くの人物の歴史的業績を取り上げながらも、「常山」という名前が日本歴史の中にも入っていないと言う事は、書き残した資料に、歴史的真実性が乏しく、かつ、薄いと云う事に原因があるのではないでしょうか。
すばらしい史的事実資料の収集の才能を持ちながら、余り江戸期の人からも注目されなかったもう一つの原因として、調べて入手した資料を時間的に配列していたならば、もっと注目されているのではと思われますが、そんなことは一切無頓着に、入手できた資料を、古きも新しきも、お構いなしにごちゃごちゃに並べられています。そのために歴史書としては多くの人から軽視され、或いは無視されたのではないかと思われます。
そんな意味で、この湯浅常山と云う人は、その研究実績に比べ、あまり人々から注目されなかった、どちらかと云えば、不遇に終わった人ではないかとも思われます。そのことを本人はどう思っていたかは分からないのですが????案外、物事にあまり頓着しない典型的O型人物だったのではないかと想像しています。どうでしょう??????
せめて、AB型の人であったならば、もう少し彼の歴史的評価が高かったのではと思えます。