この了介は、参勤交代の時に、しばしば、光政に従って江戸に赴いています。その江戸に於いても、了介の良知、博学は大変な評判となり、多くの大名だけでなくが、将軍家光さへも、「一度、熊沢了介に会ってみたいものだ」と、お思いんになられたほどです。
そんな彼は、又、大変偉大な為政者で、藩主光政公を助けて、数々の功績を残しています。その一つを、「常山紀談」で、常山は次のように紹介しています。それによると
「承応3年備前一帯は洪水に見舞われ、それが明暦元年の備前藩では大変な飢饉が起こっています。その時、
「日夜国中を巡り撫育に心を尽す」
と、了介のしたことをこう説明しています。
日夜です。昼間だけしか見て回ったのではありません。夜にも行けるところは、足を延ばしたのでしょう。その必死ぶりが読み取れます。その後にある、この「撫育」と云うたった2文字の言葉の中に、了介の心は、ありありと伺い知る事が出来ます。
どのように人々が困っているのかよく見聞きして、今、それらの人たちが一番欲して居る物は何か、親身になって人々の声を十分聞いて、援助をしていたのです。「撫」ですがら、一方的な上からのお仕付けがましい援助ではなかったのです。そこには、飢饉で困っている人に対する慈しみの心が見える援助だったのですから、援助を受けた人々も、その恩に十分に報いるだけのお返しを、当然と言えばそれまでですが、しています。
飢饉救済の費用として徳川幕府から、急遽、特別に何万両と云う借金をして、その救済に当てたのですが、この本には、それを伺わせるような文言は何処にもありません。しかし、この了介の働きがあったからこそ、この飢饉は、他国の者が聞いて驚くような、迅速で適切な飢饉対策を講じております。
そんな彼は、又、大変偉大な為政者で、藩主光政公を助けて、数々の功績を残しています。その一つを、「常山紀談」で、常山は次のように紹介しています。それによると
「承応3年備前一帯は洪水に見舞われ、それが明暦元年の備前藩では大変な飢饉が起こっています。その時、
「日夜国中を巡り撫育に心を尽す」
と、了介のしたことをこう説明しています。
日夜です。昼間だけしか見て回ったのではありません。夜にも行けるところは、足を延ばしたのでしょう。その必死ぶりが読み取れます。その後にある、この「撫育」と云うたった2文字の言葉の中に、了介の心は、ありありと伺い知る事が出来ます。
どのように人々が困っているのかよく見聞きして、今、それらの人たちが一番欲して居る物は何か、親身になって人々の声を十分聞いて、援助をしていたのです。「撫」ですがら、一方的な上からのお仕付けがましい援助ではなかったのです。そこには、飢饉で困っている人に対する慈しみの心が見える援助だったのですから、援助を受けた人々も、その恩に十分に報いるだけのお返しを、当然と言えばそれまでですが、しています。
飢饉救済の費用として徳川幕府から、急遽、特別に何万両と云う借金をして、その救済に当てたのですが、この本には、それを伺わせるような文言は何処にもありません。しかし、この了介の働きがあったからこそ、この飢饉は、他国の者が聞いて驚くような、迅速で適切な飢饉対策を講じております。