湯浅常山と云う人は、江戸時代中期の岡山藩藩士・儒学者として活躍した岡山の人です。その号が常山(じょうざん)です。
この人の著した書物に「常山紀談」があり、戦国の武将達の数々の活躍が書き表わされています。ありとあらゆる戦国の武将たちのエピソードを取り上げて、その功罪について、どこからこんな資料を取りや寄せたのかと、驚くばかりに収集して書き表しています。
例えば、加藤清正の朝鮮征伐の時の虎退治だとか、山内一豊の妻の持参金で名馬を買った事など、現在、我々が普通に知っている歴史的出来事など、こまごまと、多方面から、それこそ雑多に書き記しています。
その一つを、これは吉備の国とは全然関係がないのですが、その例として、「曾呂利新左衛門屡々頓智の事」として取り上げられている項目をご紹介します。
それには、
『堺の鞘師が始めて太閤に会った時です。太閤は
「汝の姓名は何と申するぞ」
と、問われたのだそうです。すると、その男
「私の名前は、曾呂利新左衛と申します」
と、答えたそうです。すると、太閤は
「曾呂利新左衛だと。何て、へんてこりんな名前だな。・・・して、その曾呂利と云う姓には、何ぞ、その所以でもあるのかい」
と、お問いになられたそうです。すると、曾呂利新左衛門は平気な顔をして答えたのだそうです。
「いや、そんなたいした所以(ゆえん)などあるものですか。ただ、私が造る刀の鞘は刀が<そろり>とすぐ入り、途中で、一つも閊(つか)えることがありません。それ故、私の事を、みんなが、そろりと刀が入る鞘造りの新左衛門、そうです。曾呂利新左衛門と呼ばれるようになりました。
是が、太閤に初お見えした時の曾呂利新左衛の言葉でした。』
と。
此の項には、こんな書き出しで、この後、曾呂利新左衛の数々の頓智を紹介しています。ご存じのお方が多いとは思いますが、退屈しのぎにでもなればと思い、常山が紹介している、その頓智話を、明日から、数回に分けて、例の如くに寄り道をして、ご紹介します。
この人の著した書物に「常山紀談」があり、戦国の武将達の数々の活躍が書き表わされています。ありとあらゆる戦国の武将たちのエピソードを取り上げて、その功罪について、どこからこんな資料を取りや寄せたのかと、驚くばかりに収集して書き表しています。
例えば、加藤清正の朝鮮征伐の時の虎退治だとか、山内一豊の妻の持参金で名馬を買った事など、現在、我々が普通に知っている歴史的出来事など、こまごまと、多方面から、それこそ雑多に書き記しています。
その一つを、これは吉備の国とは全然関係がないのですが、その例として、「曾呂利新左衛門屡々頓智の事」として取り上げられている項目をご紹介します。
それには、
『堺の鞘師が始めて太閤に会った時です。太閤は
「汝の姓名は何と申するぞ」
と、問われたのだそうです。すると、その男
「私の名前は、曾呂利新左衛と申します」
と、答えたそうです。すると、太閤は
「曾呂利新左衛だと。何て、へんてこりんな名前だな。・・・して、その曾呂利と云う姓には、何ぞ、その所以でもあるのかい」
と、お問いになられたそうです。すると、曾呂利新左衛門は平気な顔をして答えたのだそうです。
「いや、そんなたいした所以(ゆえん)などあるものですか。ただ、私が造る刀の鞘は刀が<そろり>とすぐ入り、途中で、一つも閊(つか)えることがありません。それ故、私の事を、みんなが、そろりと刀が入る鞘造りの新左衛門、そうです。曾呂利新左衛門と呼ばれるようになりました。
是が、太閤に初お見えした時の曾呂利新左衛の言葉でした。』
と。
此の項には、こんな書き出しで、この後、曾呂利新左衛の数々の頓智を紹介しています。ご存じのお方が多いとは思いますが、退屈しのぎにでもなればと思い、常山が紹介している、その頓智話を、明日から、数回に分けて、例の如くに寄り道をして、ご紹介します。