私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

浮田秀家の最後

2010-09-17 11:07:15 | Weblog
 此の紀談の中で、常山は浮田秀家の事についても書いています。 

 秀家は、家康共々太閤の五大老の一人でありました。関ヶ原の戦いでは、秀頼に味方して、備前藩1万8千の兵を率いて参戦しますが、豊臣方は敗れます。この戦いの後、厳しい徳川方の追求をのがれ、伊吹山に、又、美濃の白樫村にと点々と身を隠しながら、どのような経路をたどったかわ分からないのですが、最後は薩摩に逃れ着かれます。薩摩に着いたと、言う事がどうして分かったかは分からないのですが、兎に角、浮田秀家が薩摩にいる事を聞いた徳川家康は、それまでの死罪を一統減じて、秀家を八丈島に流しに処します。

 その八丈島での秀家の様子について「常山紀談」では、次のように記しています。

 「まことに苦(とま)ふく菴竹あめる戸に、雨もたまらず風もふせがねば、黒木の柱を削りて書き付けらる。

   もしほ焼く うきめかる身は 浦風の
               とうはかりにや わぶとこたえん

 「苦ふく」ですから、屋根は、当然、菅で葺かれています。そして、「菴竹あめる戸」と云うのは、どんな戸か知らないのですが、竹を割ってそれでこさえた、誠にお粗末な隙間だらけの戸ではないかと思います。そんなの粗末な家ですから、当然、雨が降れば、雨漏りはごく当り前です。吹く風までもが、遠慮会釈なく菴竹でできた戸の隙間から吹きこむような貧しいあばら家です。当然、柱も真っ黒に汚れていたのでしょう。紙も自由に手には入りません。しかたなく、真っ黒に染まった柱を「かんな」か何かで削って、そこに和歌をしたためる以外に、字など、まして和歌など書く所がなかったのでしょう。当時、紙など、八丈でも、なかったのではないでしょうが、それくらい貧しい生活をしていたのだという事を大げさに書いているとしても、32万石の大大名が戦いに敗れると、此のような悲惨な目に逢うと言う、浮世のはかなさを、間接的に物語っているのです。

 この歌の解釈は、よくは分からないのでが、

 「このような辺鄙な島に流されて、誠に侘びしい生活をしている我身に、『どうですか此処の生活は』と、浦風に尋ねられたなら、私は、ただ、「わぶ」そうです。今、私は、あれこれ考えてもどうにもならない自分の運命に対して、本当に打ちひしがれ嘆いているのですよ」
 と、答えるしか方法はありません。

 それぐらいの意味がこの歌には込められているのではと考えられます??、が、どうでしょうか

   古は 奢れりしかど わびぬれば 舎人が衣も 今は着つべし
 
 と云う、古歌のような心境ではなかったのでしょうか。