清水宗治の切腹後の秀吉の行動について見え行くと、各々の本によって随分と違いが見えます。一番正確なものと思える「佐柿常円入道物語」には、では、これをどのように説明しているか読んでみました。
なお、これも余残事ですが、現在、山陽新聞に、堺屋太一が書いている「三人の二代目」には、高松城を後にして、姫路城に入った秀吉の元に、備前藩主浮田秀家が駆け付ける場面がえがかれています。
湯浅常山の常山紀談も絵本太閤記にも、それぞれ角度を違えて書いております。
そこら辺りの史実として、私が、一番、これが正確なのではないかと思られる「佐柿常円入道物語」から取り上げてみます。
それによると、
「・・・備前の秀家幼少にて岡山の城より出向半田山(岡山市津島)のあたりにて、秀吉公とご対面なりし時、秀吉公のめされたる乗輿の中に入たまひ、様々御ねんごろにていろいろ御はなしなどなされ、今より以後は我養子とお約束なされ、沼の城あたり迄御つれなされ。それより御かへしなされける也・・・・・姫路に御着きなされて・・・」
と、書かれています。
この文章から分かる事は、この戦いの後、秀吉は、半田山、沼城などを経由して、直接姫路に到着しています。この佐柿常円入道物語には、是が、果たしてそれが六月五日なのか六日であったのかは、残念ですが、記されてはおりません。それが此の物語の短所なのです。
そう見てくると、常山紀談や太閤記の記述は、随分と史実とは違っているのだと言わねばなりません。
まあ、ここらあたりで、知らない間に随分と長くなりました高松城の水攻めの記事は終結します。
最後に、ひつこく、宗治の辞世の歌を着ておきます。
・浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して
なお、中国兵乱記と云う書物には
上に挙げた歌は、宗治と一緒に湖上で切腹したその兄月清の辞世だとされていて、宗治の辞世の歌は
・世の間(なか)の 惜しまるヽ時 散りてこそ
花も花なれ 色も有けれ
、と書かれています。
でも、現在は、ここの案内人等、高松のぼとんどの人が、宗治の辞世の歌は?と、問いかけてみてくだし。必ずや、浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して、と云う答えが返ってくることは確かです。高松城跡に有る宗治記念碑にも、この歌が辞世の歌であると記しています。念のために。
また、明日からは、当分の間、常山紀談から書きぬきしてまいりたいものだと思っています。よろしく。
なお、これも余残事ですが、現在、山陽新聞に、堺屋太一が書いている「三人の二代目」には、高松城を後にして、姫路城に入った秀吉の元に、備前藩主浮田秀家が駆け付ける場面がえがかれています。
湯浅常山の常山紀談も絵本太閤記にも、それぞれ角度を違えて書いております。
そこら辺りの史実として、私が、一番、これが正確なのではないかと思られる「佐柿常円入道物語」から取り上げてみます。
それによると、
「・・・備前の秀家幼少にて岡山の城より出向半田山(岡山市津島)のあたりにて、秀吉公とご対面なりし時、秀吉公のめされたる乗輿の中に入たまひ、様々御ねんごろにていろいろ御はなしなどなされ、今より以後は我養子とお約束なされ、沼の城あたり迄御つれなされ。それより御かへしなされける也・・・・・姫路に御着きなされて・・・」
と、書かれています。
この文章から分かる事は、この戦いの後、秀吉は、半田山、沼城などを経由して、直接姫路に到着しています。この佐柿常円入道物語には、是が、果たしてそれが六月五日なのか六日であったのかは、残念ですが、記されてはおりません。それが此の物語の短所なのです。
そう見てくると、常山紀談や太閤記の記述は、随分と史実とは違っているのだと言わねばなりません。
まあ、ここらあたりで、知らない間に随分と長くなりました高松城の水攻めの記事は終結します。
最後に、ひつこく、宗治の辞世の歌を着ておきます。
・浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して
なお、中国兵乱記と云う書物には
上に挙げた歌は、宗治と一緒に湖上で切腹したその兄月清の辞世だとされていて、宗治の辞世の歌は
・世の間(なか)の 惜しまるヽ時 散りてこそ
花も花なれ 色も有けれ
、と書かれています。
でも、現在は、ここの案内人等、高松のぼとんどの人が、宗治の辞世の歌は?と、問いかけてみてくだし。必ずや、浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して、と云う答えが返ってくることは確かです。高松城跡に有る宗治記念碑にも、この歌が辞世の歌であると記しています。念のために。
また、明日からは、当分の間、常山紀談から書きぬきしてまいりたいものだと思っています。よろしく。