私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

太閤のお耳の効用

2010-09-11 13:30:24 | Weblog
 曾呂利新左衛門は、又、ある時、太閤に対して、
 「願くば一日御耳の匂いを嗅せられたし」
 と申し上げます。太閤は
 「一体、こやつ、又、何たくらんでいるか」
 と訝しくお思ひになられます。
 なお、ここにある「こやつ」と云う字はどう書くのかおわかりですか。なんと「頓智夫」の字をあてて、そう読ましているのです。
 その企んでいる事は何か、ちょっと見てみるのも面白いことではないかと太閤も思われたのでしょう、
 「汝がよきに嗅れよ」
と、新左衛門の願いをお許しになったのだそうです。

 そんなある時です。諸国の大名たちが、大阪城に、秀吉公のご機嫌伺いに出ていた時です。新左衛門もその場に同席していたのでしょう、やおら、何お思ったか太閤に近付き、その耳元に口を寄せて何やら言うような仕草をします。

 それを見た総ての諸大名は
 「今、頓智夫(あやつ)は殿下の耳元で何を言たのだろうか。もしや、拙者の悪口でも太閤のお耳に入れているのではないだろうか。自分を讒言するものではないのだろうか。あやつは頗る殿下の寵愛する者であるから、あやつの言う事を本気にしてご機嫌でも悪くされたらそれこそ一大事だ」
 と、大層心配になられて、大名たちは、家に帰られてから、早速、新左衛門に金銀財宝を密かに送ったという。数日の内に、財宝が山のように集まったと、言われます。
 是を、黙って自分の物としてせしめて入ればいいものを、後日、新左衛門は
 「我が家には、近頃、贈り物が多く来て金銀財宝で埋まってしまい、座る場もない程です。是も殿下のお耳を嗅がしていただいたおかげです」
 と、秀吉に、ご丁寧に、報告したと言うのです。それを聞いて太閤も大層驚かれたと言う事です。

 話は、ただ、これだけです。賄賂を贈るのが普通の社会だったのですから、それによってお咎めを受けることもなかったのです。人の弱みに付け込む相当な悪徳の匂いがせんでもないのですが、それがしゃあしゃあと言って通り、人々の間でも笑い話になるくらいです。美談ごとではないのでしょうが、ちょっとへんてこりんな社会だったのです、武家の世の中は。後からお話します仇打ち話と共に。

 これだけですから、此の話を聞いた当時の、戯作者たちは、それに羽を付けたりお尾付けたりしてこのお話をより面白く作ったお話がいっぱいあるようです。
 

湯浅常山の血液型はO型か

2010-09-10 09:55:00 | Weblog
 “そろり”と刀が鞘に入ったから曾呂利と姓を付けたとしゃあしゃあと言った新左衛門に、「又、折節来らるべし」と秀吉も言います。そして、他日太閤に謁します。その時、秀吉は新左衛門に言います。
 「お前さんの姓名は何と云うか」
 と。すると、
 「曾呂利々々々新左衛門々々々」
 と、答えます。すると、秀吉は、随分、怪しみて
 「如何して、そんなに同じことを重ねて言うのだ」
 と尋ねられます。。
 「そうです。殿下は先に臣の姓名を問い、今、また、重ねて問う。故に、臣も殿下の重問の意(こころ)に従いて、同じく重問を持ってお答えしたのです」

 よく分からないのですが、世間を唸らせた頓智者として名を馳せたあの新左衛門も、こんなもんだったのでしょうか。これだけの話からだと、そんない大した頓智ではないようにも思えるのですが、どうでしょうかね。

 でも、このように彼の頓智話が有名になり、一人歩きをしているのですが、実際には、この「曾呂利新左衛門」と云う人は、この世には存在してはいなかったのではないかと云われています。

 なお、「曾呂利新左衛門」と云う人の名前を、先に挙げた「絵本太閤記」の中からも探したのですが、何処にもその名前は見当たりません。そうすると、後世の人が、架空の人物として、面白ろおかしく物語を読ませるために、本来の太閤記とは違った興味本位の読み本「太閤記」として、勝手に創り上げた人物の可能性の方が高いのではと思われます。
 
 そんな人物を何故、湯浅常山が取り上げて書いたのかは分かりません。
 と、云う事は、この「常山紀談」の記事も、正式な歴史書として取り扱うには、随分と怪しいいい加減な所もあるのではないかと思われます。まあ当時は、「こんな話も、世の中には、噂として言い伝わっていたのですよ」言うぐらいの軽い気持ちの読み物だったのではなかったのでしょうか。あれだけ多くの人物の歴史的業績を取り上げながらも、「常山」という名前が日本歴史の中にも入っていないと言う事は、書き残した資料に、歴史的真実性が乏しく、かつ、薄いと云う事に原因があるのではないでしょうか。
 すばらしい史的事実資料の収集の才能を持ちながら、余り江戸期の人からも注目されなかったもう一つの原因として、調べて入手した資料を時間的に配列していたならば、もっと注目されているのではと思われますが、そんなことは一切無頓着に、入手できた資料を、古きも新しきも、お構いなしにごちゃごちゃに並べられています。そのために歴史書としては多くの人から軽視され、或いは無視されたのではないかと思われます。
 そんな意味で、この湯浅常山と云う人は、その研究実績に比べ、あまり人々から注目されなかった、どちらかと云えば、不遇に終わった人ではないかとも思われます。そのことを本人はどう思っていたかは分からないのですが????案外、物事にあまり頓着しない典型的O型人物だったのではないかと想像しています。どうでしょう?????? 
 せめて、AB型の人であったならば、もう少し彼の歴史的評価が高かったのではと思えます。
  

曾呂利新左衛門屡々頓智の事

2010-09-09 10:23:44 | Weblog
 湯浅常山と云う人は、江戸時代中期の岡山藩藩士・儒学者として活躍した岡山の人です。その号が常山(じょうざん)です。
 この人の著した書物に「常山紀談」があり、戦国の武将達の数々の活躍が書き表わされています。ありとあらゆる戦国の武将たちのエピソードを取り上げて、その功罪について、どこからこんな資料を取りや寄せたのかと、驚くばかりに収集して書き表しています。
   
 例えば、加藤清正の朝鮮征伐の時の虎退治だとか、山内一豊の妻の持参金で名馬を買った事など、現在、我々が普通に知っている歴史的出来事など、こまごまと、多方面から、それこそ雑多に書き記しています。

 その一つを、これは吉備の国とは全然関係がないのですが、その例として、「曾呂利新左衛門屡々頓智の事」として取り上げられている項目をご紹介します。

 それには、

 『堺の鞘師が始めて太閤に会った時です。太閤は
 「汝の姓名は何と申するぞ」
 と、問われたのだそうです。すると、その男
 「私の名前は、曾呂利新左衛と申します」
 と、答えたそうです。すると、太閤は
 「曾呂利新左衛だと。何て、へんてこりんな名前だな。・・・して、その曾呂利と云う姓には、何ぞ、その所以でもあるのかい」
 と、お問いになられたそうです。すると、曾呂利新左衛門は平気な顔をして答えたのだそうです。
 「いや、そんなたいした所以(ゆえん)などあるものですか。ただ、私が造る刀の鞘は刀が<そろり>とすぐ入り、途中で、一つも閊(つか)えることがありません。それ故、私の事を、みんなが、そろりと刀が入る鞘造りの新左衛門、そうです。曾呂利新左衛門と呼ばれるようになりました。

 是が、太閤に初お見えした時の曾呂利新左衛の言葉でした。』
 と。

 此の項には、こんな書き出しで、この後、曾呂利新左衛の数々の頓智を紹介しています。ご存じのお方が多いとは思いますが、退屈しのぎにでもなればと思い、常山が紹介している、その頓智話を、明日から、数回に分けて、例の如くに寄り道をして、ご紹介します。

 

 

再び 佐柿常円物語です 

2010-09-08 19:14:28 | Weblog
 清水宗治の切腹後の秀吉の行動について見え行くと、各々の本によって随分と違いが見えます。一番正確なものと思える「佐柿常円入道物語」には、では、これをどのように説明しているか読んでみました。
 なお、これも余残事ですが、現在、山陽新聞に、堺屋太一が書いている「三人の二代目」には、高松城を後にして、姫路城に入った秀吉の元に、備前藩主浮田秀家が駆け付ける場面がえがかれています。
 湯浅常山の常山紀談も絵本太閤記にも、それぞれ角度を違えて書いております。

 そこら辺りの史実として、私が、一番、これが正確なのではないかと思られる「佐柿常円入道物語」から取り上げてみます。
 それによると、

 「・・・備前の秀家幼少にて岡山の城より出向半田山(岡山市津島)のあたりにて、秀吉公とご対面なりし時、秀吉公のめされたる乗輿の中に入たまひ、様々御ねんごろにていろいろ御はなしなどなされ、今より以後は我養子とお約束なされ、沼の城あたり迄御つれなされ。それより御かへしなされける也・・・・・姫路に御着きなされて・・・」
 と、書かれています。

 この文章から分かる事は、この戦いの後、秀吉は、半田山、沼城などを経由して、直接姫路に到着しています。この佐柿常円入道物語には、是が、果たしてそれが六月五日なのか六日であったのかは、残念ですが、記されてはおりません。それが此の物語の短所なのです。
 
 そう見てくると、常山紀談や太閤記の記述は、随分と史実とは違っているのだと言わねばなりません。


 まあ、ここらあたりで、知らない間に随分と長くなりました高松城の水攻めの記事は終結します。

 最後に、ひつこく、宗治の辞世の歌を着ておきます。

     ・浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
                    名を高松の 苔に残して


   なお、中国兵乱記と云う書物には
 上に挙げた歌は、宗治と一緒に湖上で切腹したその兄月清の辞世だとされていて、宗治の辞世の歌は

     ・世の間(なか)の 惜しまるヽ時 散りてこそ
                    花も花なれ 色も有けれ
 、と書かれています。

 でも、現在は、ここの案内人等、高松のぼとんどの人が、宗治の辞世の歌は?と、問いかけてみてくだし。必ずや、浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して、と云う答えが返ってくることは確かです。高松城跡に有る宗治記念碑にも、この歌が辞世の歌であると記しています。念のために。
  
 また、明日からは、当分の間、常山紀談から書きぬきしてまいりたいものだと思っています。よろしく。
 
 

ええかげんにせえ。筆景氏

2010-09-07 11:07:48 | Weblog
 久しぶりに寶泥氏からメールを頂きました。
 「水攻めの後、秀吉がどうのこうの、もうそれぐれえでええ。ええかげんにせえや。あんまり知りもせんことを、ああでもねえ、こうでもにぇえと、どうでもええようなことをけえておる。阿呆らしゅうて読む気もねえんじゃが、まあ、おめえが、折角、けえておるけえ読んでやっておるんじゃ。・・・・こうも、こうくどくどしゅけえておると、読むんがあほらしゅうなるんじゃ。おめえは、己の分をしっとるんか、分と云うのを知らにゃあ。もうええかげんにせえや」

 「まあ、そんなあなた様のようなご意見もありましょうが、私が、折角、苦労して見つけた、今までは、余り人々の間でも、問題にもならず、見向きもされなかったような高松城の水攻めのアナザーストーリーとして、書いてみるのも、また、一興ではないかと思いと、自分に言い聞かせながら書いているのですが、どうでしょうか。是は、私には、そんなに、あなたが言われる様な、どうでもええような無価値なもんだとは思わんのですがなあ」
 と、メールを返しておきました。
 
 あんまり、なんだかんだと、「ヒツケエ」もんで、もういい加減にしてくれと云う気分になって、この飯亭寶泥氏のニックメームを、今日から「筆景]氏と命名し直すことにしましたのですがどうでしょうか。

 そんなもんには惑わされないで、折角、見つけたものを今しばらく書いてみますのでお読みになって、どんどんご批判頂けたらと思います。

 さてと、清水宗治切腹の後です。今度は、あの、絵本太閤紀ではどう扱われているか調べてみました。それによると、

 「秀吉申し給うは、毛利和平調う上は、半時も早く都へ馳せ行き、亡君の弔い合戦を営まんと欲す。方々は当陣を取り収め、それが済み次第馳せ上れ、構えて遅参有るべからずといい捨て、ずんと座を立ち馬引寄せて打跨り、一鞭くれて駆出し給えば・・」
 と書いています。六月五日の事でした。そのまま馬に跨り姫路まで駆け進んでいきます。
 なお、そのまま馬を駆って尼崎まで闇雲に進んだという異説もあるようですが、姫路で一日馬を休め、改めて、京に攻め上ったと言うのが真実ではないかと思います。
 でも、この太閤紀に書いてあるように、高松城での戦いの後の処置を、何もかにも何もすべてほッとらかして、一路京都に秀吉が単騎で馳せ上ったと言うのも余りにも嘘っぽく見えるのですが、どうでしょうか。
 そうです。
 「周章敗亡以前に倍し、取り囲みたる陣々も打ち捨て、太刀、刀、馬、武具、幟、旗、幕の類は捨てたるまゝにて、取り集める人もなく押し合い踏み合い馳せけるにぞ、近郷の土民等拾い取りて、俄に徳付ぬとて悦びあへり」

 と書いています。これも、誠に、秀吉からぬことのように思われ、読み物として一段と大袈裟に、かつ、おもしろおかしゅう書いているのではないかと思えますが。

一里を六時間かけて進んだ秀吉の謎と奥州驪

2010-09-06 07:55:37 | Weblog
 宗治の切腹後に、秀吉は、早速、毛利家と和睦を結び、直ちに、京へ信長の弔い合戦の為に引き返します。

 此の時、秀吉の行動について、あの湯浅常山の「常山紀談」には、岡山の浮田秀家に手紙を送って、
 「まず、岡山城に立ち寄り、そこで、光秀との弔い合戦の計画を練るから、よろしく頼む」
 と、伝えたのだそうです。
 しかし、その岡山に、もし光秀と心を通じた者がいたらと、これも万一の事を考えて、俄に「霍乱(かくらん=日射病)」ーそうです。今年特に多かった熱中症ですーになって立寄る事が出来ないと通知して来ます、それを受けて浮田秀家は急遽使いを送り見舞いを寄こします。その使いには
 「秀吉侯は、只今霍乱にて吐瀉して寝入り候」
 と、伝えてます。
 その間に秀吉は「奥州驪」と云う名馬に乗って、この「驪」は「くろ」と読まれ、その毛並みが真っ黒で、将に、精悍そのままの馬をそう呼んでいたと言う事です。吉井川を渡り片上を過ぎ宇根に馳せ付けていたのだったそうです。それを知って浮田の人々、ただただ「皆あきれけるぞと」有ります
 なお、此の常山紀談には、
 「秀吉六月七日の明け方より高松より引き返し、午の刻ばかりに宮内に着きて」と書かれていますが、この明け方を「明け六つ」と仮定しても、たった一里程度の距離を六時間もかけて着くというのはどう考えてもおかしいのです。前の「奥州驪」と云う名馬で、岡山の城下を通り抜けるのにか掛かった時間との関係からも怪しげな臭いが立ち込めるのですが。?そうです。同じ六時間程度かけて午前中には1里しか進まなかったものが、午後には、なんと25里も掛け抜けて、船坂山を過ぎ、播磨の国の宇根と云う駅まで駒を進めています。驚きという事を通り越して、おかしげなこととしか言いようがありません。しかし、ここでは秀吉の秀吉らしい事をしております。それは
 「使いを岡山にやりて急ぐ事の候て、脇道を通りて過ぎ候ひぬ」
 と、わざわざ、岡山城の浮田に知らせていることです。
 なお、浮田(宇喜田)秀家は、ご存じのように、後に豊臣秀吉の五大老の一人になった人です。

 でも、此処に記されている、昼頃、秀吉が我が吉備津の「宮内」に着いたと云う事が真実ならば、多分、これは、この記述にはないのですが、毛利氏との戦いに勝利報告を兼ねたお礼参りと、これから行う明智光秀との信長の弔い合戦に対する戦勝祈願を、吉備津神社で行ったのではないかと、推測されます。しかし、是も、誠に残念なことですが、そんな記録は吉備津神社関係の文献では見当たりません。
 
 常山紀談にある「秀吉浮田を欺きて上洛のこと」を読んでみるも、どうも随分いい加減で怪しけな感じがするのですが。それは、先の佐柿弥左衛門入道常円の物語を見ても十分証明が出来ると思われます。
 

左柿常円の語る高松城水攻め

2010-09-04 15:58:32 | Weblog
 「清水宗治切腹す」
 これで、高松城を中心とする秀吉方と毛利方との戦いは終結します。
 堤は切り落とされ、六千人の命は救われたのでした。勿論、鼠や蛇たちもです。大団円の結末だったようです。そかし、ここに一つだけ疑問点が残っているのです。それはこの堤の何処の部分を切り放したかという点です。中央の部分であったのか、それとも一番低い位置する東の端の部分かと云う言う事です。未だに、それが分かる証拠となる書き物が出でこないのですから、分からないのが当たり前です。此の佐柿常円の物語にでもと思ってみたのですが、ここにもやはり何処を切り放したかは書かれてはおりません。
 ただ、それには
 「彼堤を切てはなさせ其儘引取成られ候へば、俄に毛利家の陣所との間大海の如くに成て、たとひ追討の心ありても何ともすべき様なき事にてありしなり」
 と、記しています。
 これからだと正確な切り落とし場所の判明は不可能ですが、推測すると、やはり門前の取り入れ口辺りの堤を切り放したのではないかと考えられます。もし、この堤の中央辺りや東の端だったと仮定すると、ここに書かれている毛利家の陣処との間には大海原は出来ないと思います。その大海原の出現を見越した堤切りが行われたのでしょう。
 「もし毛利家が約束を違えたら」と、そんなことは決してありえない事にまで、思いを巡らしながら、より確実に、作戦を展開させた秀吉と云う男の戦術の確かさには驚かされます。
 これは六月五日の午前中に為されたと思われます。


 

夕焼け雲を書き終えて

2010-09-03 11:22:12 | Weblog
 これにて、私の日差山での毛利家の武将と安国寺恵瓊とのやり取りの一部始終のお話を終わります。何も資料がない中の、それらしき風情を盛り込んだ物語作りが、いかに大変だと言う事が分かります。でも、どうにか、ごちゃごちゃと、同じことを何回も繰り返しながら、また、我ながら拙い文だと思いながら、厚顔無恥に書き綴ってみました。結局、なんだかんだと思いながらも、9000字程の私の物語?????に作り上げました。
 途中で、男女共同参画社会ですから、この物語にも女性の登場をと、思ったのですが、取り上げる場がなく、なんだかさみしいお話になってしまいました。女の人が、もしお読みくださったなら、きっと、ひどいお叱りを受けるのではないかと云う不安も多少は私の心の中に行き来したのですが。高松城への泥水が押し寄せる場面で、いざという場の女性の強さの声があってもいいかなとも思ったのですが、何だかこの場にはに似つかわしくないように思えて、取り上げませんでした。また、明日を知れない運命を背負った城内の若い男女の秘めた色恋でも絡ませるのも面白いのではとも考えてみたりもしたのですが、余りにも、宗治の神聖な切腹に対して不敬の影を濃くするのではと思い遠慮させていただきました。そんな意味で、男性だけの世界のお話になった次第です。いつか、またの機会に、此の時の高松城の女性たちについて筆を動かしてもいいかなとも思っていますが、どなたかお書きになられませんか。

 なお、他の4,5編はあると思われる太閤記では、この高松城の水攻めに、この安国寺恵瓊なる人物を登場させてはいません。しかし、この絵本太閤記には、どうしてだかは分かりませんが、きちんと登場していて、その活躍が画かれています。

 又、これも嘘か誠かは分からないのですが、一説によりますと、我が町吉備津が板倉宿として山陽道の宿場町になったのは、秀吉軍が朝鮮出兵、あの文禄慶長の役の時からだと云われています。この板倉の宿場は、この安国寺恵瓊が、豊臣軍が、朝鮮に出兵時の宿舎の場所として新たに設け、それ以前から山陽道の宿場町として栄えていた備前辛川(岡山市一宮)にあった宿屋などの施設など根こそぎ板倉に移して、新しい宿場町を作ってつたと云われています。その理由は、それまであった辛川の旧施設では、派遣する兵士を収容しきれなかったからではないかと云う人もいますが、宮内にあった遊郭が、その一番の原因ではなかったのかと、言う人もいるようです。

 それはともかくとして、それ以降、この二つの町は大変仲が悪く、その気風は現代まで引き継がれ、何に付けても二つの町は、非協力的であると言う人も、我近辺にはおられるようです。

 でも、この安国寺恵瓊と云う人の名前ですが、今は、誰もが踏みさえしないような陽炎か影法師のように、我が吉備津には残ってはいません。と云うよりも、完全に消えさって、それを語る人も誰一人いないようです。

夕焼け雲 6

2010-09-02 12:16:28 | Weblog
 「ううう」
 元長の目から一筋の涙が流れ落ちます。今までにあった己の気力はいっぺんに吹き飛んで、どう仕様もない空しさだけが体に残ります。そんな思いは、只、此の若い一人の毛利の武将だけが味わった悲哀ではありません。毛利の軍勢総ての者に、多かれ少なかれ、なんだか訳の分からないような空虚な思いに包まれるのでした。その場全体に、振り上げた拳の下ろし所がないような急に力の抜けたやるせなさが立ちこめます。誰もがじっと下を向いたまま身動き一つありません。あたかも死の世界に舞い落ちたような、一面は静寂な世界です。


 夜はとっぷりと暮れています。ついさっきまで懸かっていた福山辺りの夕焼け雲は、その面影は消え、どこかに去ってしまっています。其の夕焼け雲に代わって、そこら辺りは、空も山も里も、一面に一枚の漆黒の闇の屏風を立て懸けたような、人がいてもその人さえも完全に消え去ってしまった無の沈黙の世界です。それこそ、あたかも地獄の底でも漂っているのではないかと思える死の世界です。ただ、日差山の下からは、その闇を通して、どーどーと云う兄部川の流れる激流の音でしょうか不気味な海鳴りに似た音だけが、つい先程と、何も変わらないかのように音を立てています。

夕焼け雲 5

2010-09-01 08:24:29 | Weblog
 「宗治公は申されます。
 『今、この高松城内には六千余名の武者たちが籠城しておりまする。・・・此の者たちは、過去、幾多の戦場で多くの武勇で名を馳せた者たちばかりです。そんな者たちを、敵と一戦も交えずして、そうです、戦わずして此の泥水の藻屑となって、あらた命を失わせると思えば断腸の念が一入高まりまする。「嗚呼、無念なり」と、声なきうめき声が、城の天井からも、歩く板の隙間からも、壁からも、ありとあらゆるところから、我が耳に伝わってくるのでございます。・・・・だが、その恨みがましい亡者の如き声に対して、この城を預かる責任ある者として、無念だが、どうしてやることも出来ないのです。・・・・・静かに死を待つ以外には遣りようのない空しさが辺り一面に亡霊の如くに漂っているのです。天下の武士として、これほど哀れな事がありましょうや。・・・武士としての面目が施せない、腰の刀の置き所のない戦いほど武士にとっては無残な戦いです。こんな戦いがかって何処かにあったでしょうか。戦わずして敗者の汚名を着る、何とこの戦いの「無残なり」としか言いようのないの哀れな姿なのです。蛇や鼠までが、敵味方と分かれ、互いに覇権を競い争う事の疎かさを呪うているようでもあります。
 その昔、唐土の国に杜甫と云う詩人が兵車行と云う詩を作って歌っています。
  古來白骨無人收    古來 白骨 人の收むる無く 
  新鬼煩冤舊鬼哭    新鬼は煩冤して舊鬼は哭し
  天陰雨濕聲啾啾    天陰り 雨濕して 聲啾啾たるを

 戦いとは所詮こんなものでしょう。死んだ者の魂は恨みをいだき、更に、嘆き叫び、天は曇り、雨はそぼ降り、戦士たちの魂の叫びが啾啾と響くのを。と歌っています。そんな場にこの高松城にするわけにはいきません。それが回避できるのは、拙者を置いては誰もいません。
 
 我々此の城に籠っている者たちの運命の時が目前に差し迫っています。このまま手をこまねいて見過ごすことは、どうしてもできないのです。どうして宗治は六千もの城兵を虫けらのように見殺しにしたと後世の者たちからも、きっと非難されること必至です。
 今、此の清水長左衛門宗治は、いったい何を為すべきか。例え、誰がこの高松城主であって考えると思いまする。人あってこその毛利家のご繁栄なのです。人を大切にしてこそ、国は栄えるのです。その毛利家の御為になるならば、草に宿す朝露ごとくに散り消えるとも、一向に惜しくありません。そうすることが、かえって、清水宗治の名誉にすらなると思うのです。

 そこで、『我は如何に』と、兄月清などと相諮って、明朝、秀吉の本陣へ遣いを遣ろうとしていた折なのだ。と」
 

 どうです。・・・元長様・・・あの大井川の、どうすることも出来ない渦巻き流れ落ちる濁水のように、総て清水長左衛門宗治公ご自分のご意志従うわけにはいかないでしょうか。それは、宗治公の助命よりも、大きな意義があるように思えるのですが。・・・・宗治公お独りでしかできない、毛利家の武門としての名誉を、一身に背負われて、この戦いを終結できるのでは有りませんでしょうか。それは又、杜甫の“聲啾啾たるを”と云う戦いの悲しみを、この高松の地で、いや、後世の人々が聞かないですむ、唯一の方法だと思うのですが・・・・」