メディアは多分どこも報じていない「今日」という日。
その「今日」とは1941年12月8日。67年前の「今日」、日本中は対アメリカ・イギリス開戦の報にわいた。各紙はその戦争の意義をたからかにうたい、学校では心おだやかに過ごすよう話が行われたりした。
その「今日」がまもなく過ぎ去ろうとしている。
この日本という国の愚かさを改めて感じる。
「終戦記念日」は総理大臣はじめ国をあげて「平和」への思いを確認する。「戦争が終わった」ことはほとんどの誰もが歓迎するだろう。
ただ、「終わり」があれば「始まり」があるわけで、なぜ戦争が始まったのか、今の社会は大丈夫か(再び戦争への道をたどってはいないだろうか)という問い返しをするのは、やはり「今日」でなくてはならないと思う。
「今日」がなければ、「英霊」は存在しなかったし、今日的な靖国問題もなかったと思う。
政党のHPにも談話などは出されていない。平和の党を自認するS党やK党、K党も全く音沙汰なしの様子。政治家こそこの日を大事にしてほしいのに。
ごく一部の人々が講演会を開催しているくらいだ。
この間のシビリアンコントロールの形骸化を浮き彫りにするような、某事務次官の問題、航空幕僚長の発言など1930年代を彷彿させるような事象の連続に危機感を募らせます。
あらためて、12.8
その「今日」とは1941年12月8日。67年前の「今日」、日本中は対アメリカ・イギリス開戦の報にわいた。各紙はその戦争の意義をたからかにうたい、学校では心おだやかに過ごすよう話が行われたりした。
その「今日」がまもなく過ぎ去ろうとしている。
この日本という国の愚かさを改めて感じる。
「終戦記念日」は総理大臣はじめ国をあげて「平和」への思いを確認する。「戦争が終わった」ことはほとんどの誰もが歓迎するだろう。
ただ、「終わり」があれば「始まり」があるわけで、なぜ戦争が始まったのか、今の社会は大丈夫か(再び戦争への道をたどってはいないだろうか)という問い返しをするのは、やはり「今日」でなくてはならないと思う。
「今日」がなければ、「英霊」は存在しなかったし、今日的な靖国問題もなかったと思う。
政党のHPにも談話などは出されていない。平和の党を自認するS党やK党、K党も全く音沙汰なしの様子。政治家こそこの日を大事にしてほしいのに。
ごく一部の人々が講演会を開催しているくらいだ。
この間のシビリアンコントロールの形骸化を浮き彫りにするような、某事務次官の問題、航空幕僚長の発言など1930年代を彷彿させるような事象の連続に危機感を募らせます。
あらためて、12.8