2/4に「4本の橋脚の今」と題した記事を書きました。
薩摩永野駅を出て2つのトンネルを抜け、宮之城線最長のトンネルの椿越トンネルの手前までは、その記事でも書いたと思うのですが、間伐の関係車両が出入りしているらしく、一般車両でも入っていくことができます(運転は慎重に)。
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これについては、ずっとひっかかっていました。
というのも、まずは、下の写真を見てください。
。
宮之城線が現役だった頃にカレンダーの一ページとして撮影されたものです。真ん中の一本は強固なコンクリートの塔のようです。その両サイドにも立っています。
ここで、背景の山の稜線の位置と鉄橋手前の植林を覚えておいて、次の写真を見てください。
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これは現在の姿です。
植林された杉が成長し、鉄橋跡どころか山の稜線すら超えています。
大事なことは両方の写真の共通点として、写真中央部の植林が切れていることです。ここには小川が流れており、その川幅の分だけ、植林に隙間ができています。
この「隙間」の先にあるのは、カレンダーの写真で言えば、中央の最も強固な橋脚ですが、2/4に私はこれを2本目の橋脚と書いてしまいました。
間隔からして、橋脚は5本あったと考えるのが妥当でしょう。
実際、現地で「隙間」を確認しつつ、どのコンクリート塊がその位置に座しているのか確認してみました。
つまり、2/4に述べた1本目は実は2本目、2本目は3本目(真ん中)、3本目は4本目、4本目は5本目となります。
では、1本目と橋台はどうなってしまったのでしょうか。
そこで、かつて紹介した写真を再び載せたいと思います。
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赤い服を着てピースをしているのは、3~4歳頃の二女です。奥の白いセーターを着ているのが私。だいたい15年くらい前の写真、つまり1995年頃で廃線になってから8年と鉄道の遺構もたくさん残っていた時代です。
ガードレールの先に盛り土がしてあります。
ということは、現在も残るこのガードレールの先に橋台と1本目の橋脚があったと考えるのが妥当でしょう。
しかし、現在、ここには伐採された木々の枝が山となり、確認のしようがありません。
より正確な調査をするには、当時の記憶の確かな方と一緒に訪れるか、鉄橋の図面や当時の詳細な地図が必要となりましょう。
ぜひ知りたいところですが、呼びかけてもそんな方はなかなか現れないのでしょうね。
薩摩永野駅を出て2つのトンネルを抜け、宮之城線最長のトンネルの椿越トンネルの手前までは、その記事でも書いたと思うのですが、間伐の関係車両が出入りしているらしく、一般車両でも入っていくことができます(運転は慎重に)。
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これについては、ずっとひっかかっていました。
というのも、まずは、下の写真を見てください。
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宮之城線が現役だった頃にカレンダーの一ページとして撮影されたものです。真ん中の一本は強固なコンクリートの塔のようです。その両サイドにも立っています。
ここで、背景の山の稜線の位置と鉄橋手前の植林を覚えておいて、次の写真を見てください。
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これは現在の姿です。
植林された杉が成長し、鉄橋跡どころか山の稜線すら超えています。
大事なことは両方の写真の共通点として、写真中央部の植林が切れていることです。ここには小川が流れており、その川幅の分だけ、植林に隙間ができています。
この「隙間」の先にあるのは、カレンダーの写真で言えば、中央の最も強固な橋脚ですが、2/4に私はこれを2本目の橋脚と書いてしまいました。
間隔からして、橋脚は5本あったと考えるのが妥当でしょう。
実際、現地で「隙間」を確認しつつ、どのコンクリート塊がその位置に座しているのか確認してみました。
つまり、2/4に述べた1本目は実は2本目、2本目は3本目(真ん中)、3本目は4本目、4本目は5本目となります。
では、1本目と橋台はどうなってしまったのでしょうか。
そこで、かつて紹介した写真を再び載せたいと思います。
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赤い服を着てピースをしているのは、3~4歳頃の二女です。奥の白いセーターを着ているのが私。だいたい15年くらい前の写真、つまり1995年頃で廃線になってから8年と鉄道の遺構もたくさん残っていた時代です。
ガードレールの先に盛り土がしてあります。
ということは、現在も残るこのガードレールの先に橋台と1本目の橋脚があったと考えるのが妥当でしょう。
しかし、現在、ここには伐採された木々の枝が山となり、確認のしようがありません。
より正確な調査をするには、当時の記憶の確かな方と一緒に訪れるか、鉄橋の図面や当時の詳細な地図が必要となりましょう。
ぜひ知りたいところですが、呼びかけてもそんな方はなかなか現れないのでしょうね。