前回の記事では、日英同盟のことに言及した。ことのついでなので、今回は、日露戦争後の日本についても書いておきたい。そこには、現代にも通じる教訓があると考えるからである。
よくいわれるとおり、日露戦争での日本の勝利は、欧米列強にとっては驚嘆すべきことで、列強も日本に一目おくことになる。そしてそれは同時に、日本脅威論の出発点でもあった。これは、ドイツの強大化がイギリスやフランスに警戒心を抱かせたのと同じ構図である。とりわけ中国進出を目指すアメリカは、日本の強大化に警戒感を示すようになり、日本がこのまま勢力を伸ばしていけばいずれアメリカと衝突することになるのは、その当時の世界では常識的なことと考えられた。
では、一体どうすればいいのか――そこで日本が手を組もうとしたのが、かつての敵国であるロシアだった。
実は、日露戦争終結後、日本とロシアは急速に接近している。これは、アメリカの勢力がアジア地域に及んでくることを避けたい両国の思惑が一致していたためだ。1907年から1912年までの3次にわたる日露協約では、両国の火種となりそうな満州での勢力範囲分割について合意し、アメリカをけん制するために満州での協力を約束する秘密協定を結んだりもしている。
さて、ではロシアと手を組んでアメリカをけん制するという策は果たして有効に機能しただろうか?
結果としては、ノーということになる。なぜかといえば、日本と親密な関係を作っていたロシアのロマノフ王朝自体が、1917年のロシア革命によって転覆してしまったためだ。これによって、帝政日本としては容認しえない社会主義国家がロシアに誕生し、それまで築き上げてきた日露の協力関係は一気に瓦解した。さらには、その後、第一次世界大戦後の新たな国際的枠組み作りのなかで、日本の安全保障政策の柱であった日英同盟も消滅してしまう。この状態で、日本は満州事変を起こし、アメリカとの無謀な戦争に突き進んでいくことになるのだ。
ここから導き出される教訓は、同盟というものはいつまでも持続できるとはかぎらない、ということだ。革命というほどのことでないにしても、政権交代で同盟相手国が態度を変えるということはじゅうぶんに起こりうる。いま同盟が成立しているとしても、五年後、十年後にもそれが維持できているという保障はない。
この歴史の教訓から得られる結論は、結局のところ同盟などというものはあてにならないということだ。日露の関係が示しているとおり、協力関係を結んだ相手がいつまでもその体制を維持しているとはかぎらない。単に相手国の都合というだけでなく、日英同盟の場合のように国際環境の変化で同盟を解消することもある。事情はそれぞれだが、結果としては、日英同盟も、日露協約も、肝心の日米開戦時には、もう消滅してしまっていた。それが一番必要とされるときには、もうなくなっていて、役に立たなかったのである。その代わり日本にあったのは、見かけ倒しのヒトラー・ドイツと、おまけのようについてきて足を引っ張るばかりのムッソリーニ・イタリアであった。そしてこの三国同盟で、日本は破滅した。他国と同盟を結んでけん制しあうというゲームのような外交の行き着く先は、日本を焦土に変える戦争だった。
もう少し周辺的なことを書いておくと、たとえば日英同盟だが、日英同盟については、1911年の第三回協約で、アメリカを軍事同盟の対象国からはずしている。これについては実効性を疑問視する見方もあるようだが、仮に日米開戦時に日英同盟が存在していたとしても、このことを口実として英国は日本を支援しなかった可能性もある。また、日露関係については、その後ソ連とのあいだで日ソ中立条約というものが結ばれもした。米ソを同時に相手にすることは避けたい日本と、対独戦のために背後の安全を確保しておきたいソ連の思惑が一致し、イデオロギーのことはひとまずおいて中立条約ということになった。だが、第二次大戦終結間際の土壇場になってソ連が一方的にそれを破って日本に侵攻してきたのは周知のとおりである。国家間の約束などというのは、所詮その程度のものなのだ。本当に必要な時まで維持し続けられる保証もないし、国益に反する場合には、あっさり破られる。こんなものに頼ろうとするのは、バクチに近い。しかも、かなり割りにあわないバクチだ。
安倍政権は、安保法制についてことあるごとに「責任」を口にするが、集団的自衛権などという不確実なものに国民の生命を賭けるのは無責任以外のなにものでもない。街宣に出た谷垣禎一氏は反対派の“帰れ”コールを浴びて「帰れと叫んでいるだけでは平和は来ない」といったが、あんたらのやり方ではもっと来ないよ、という話である。最近は、与党内にも安倍政権の強引さを懸念する声があるそうだが、安倍政権に叛旗を翻す良識の持ち主はいないものだろうか。
よくいわれるとおり、日露戦争での日本の勝利は、欧米列強にとっては驚嘆すべきことで、列強も日本に一目おくことになる。そしてそれは同時に、日本脅威論の出発点でもあった。これは、ドイツの強大化がイギリスやフランスに警戒心を抱かせたのと同じ構図である。とりわけ中国進出を目指すアメリカは、日本の強大化に警戒感を示すようになり、日本がこのまま勢力を伸ばしていけばいずれアメリカと衝突することになるのは、その当時の世界では常識的なことと考えられた。
では、一体どうすればいいのか――そこで日本が手を組もうとしたのが、かつての敵国であるロシアだった。
実は、日露戦争終結後、日本とロシアは急速に接近している。これは、アメリカの勢力がアジア地域に及んでくることを避けたい両国の思惑が一致していたためだ。1907年から1912年までの3次にわたる日露協約では、両国の火種となりそうな満州での勢力範囲分割について合意し、アメリカをけん制するために満州での協力を約束する秘密協定を結んだりもしている。
さて、ではロシアと手を組んでアメリカをけん制するという策は果たして有効に機能しただろうか?
結果としては、ノーということになる。なぜかといえば、日本と親密な関係を作っていたロシアのロマノフ王朝自体が、1917年のロシア革命によって転覆してしまったためだ。これによって、帝政日本としては容認しえない社会主義国家がロシアに誕生し、それまで築き上げてきた日露の協力関係は一気に瓦解した。さらには、その後、第一次世界大戦後の新たな国際的枠組み作りのなかで、日本の安全保障政策の柱であった日英同盟も消滅してしまう。この状態で、日本は満州事変を起こし、アメリカとの無謀な戦争に突き進んでいくことになるのだ。
ここから導き出される教訓は、同盟というものはいつまでも持続できるとはかぎらない、ということだ。革命というほどのことでないにしても、政権交代で同盟相手国が態度を変えるということはじゅうぶんに起こりうる。いま同盟が成立しているとしても、五年後、十年後にもそれが維持できているという保障はない。
この歴史の教訓から得られる結論は、結局のところ同盟などというものはあてにならないということだ。日露の関係が示しているとおり、協力関係を結んだ相手がいつまでもその体制を維持しているとはかぎらない。単に相手国の都合というだけでなく、日英同盟の場合のように国際環境の変化で同盟を解消することもある。事情はそれぞれだが、結果としては、日英同盟も、日露協約も、肝心の日米開戦時には、もう消滅してしまっていた。それが一番必要とされるときには、もうなくなっていて、役に立たなかったのである。その代わり日本にあったのは、見かけ倒しのヒトラー・ドイツと、おまけのようについてきて足を引っ張るばかりのムッソリーニ・イタリアであった。そしてこの三国同盟で、日本は破滅した。他国と同盟を結んでけん制しあうというゲームのような外交の行き着く先は、日本を焦土に変える戦争だった。
もう少し周辺的なことを書いておくと、たとえば日英同盟だが、日英同盟については、1911年の第三回協約で、アメリカを軍事同盟の対象国からはずしている。これについては実効性を疑問視する見方もあるようだが、仮に日米開戦時に日英同盟が存在していたとしても、このことを口実として英国は日本を支援しなかった可能性もある。また、日露関係については、その後ソ連とのあいだで日ソ中立条約というものが結ばれもした。米ソを同時に相手にすることは避けたい日本と、対独戦のために背後の安全を確保しておきたいソ連の思惑が一致し、イデオロギーのことはひとまずおいて中立条約ということになった。だが、第二次大戦終結間際の土壇場になってソ連が一方的にそれを破って日本に侵攻してきたのは周知のとおりである。国家間の約束などというのは、所詮その程度のものなのだ。本当に必要な時まで維持し続けられる保証もないし、国益に反する場合には、あっさり破られる。こんなものに頼ろうとするのは、バクチに近い。しかも、かなり割りにあわないバクチだ。
安倍政権は、安保法制についてことあるごとに「責任」を口にするが、集団的自衛権などという不確実なものに国民の生命を賭けるのは無責任以外のなにものでもない。街宣に出た谷垣禎一氏は反対派の“帰れ”コールを浴びて「帰れと叫んでいるだけでは平和は来ない」といったが、あんたらのやり方ではもっと来ないよ、という話である。最近は、与党内にも安倍政権の強引さを懸念する声があるそうだが、安倍政権に叛旗を翻す良識の持ち主はいないものだろうか。