安倍総理が、橋下大阪市長と会談したという。
その中身はあきらかにされていないが、安保法案への協力をもとめたものとみられている。このニュースに、私は「やはり」と思った。というのは、これこそまさに、前回書いた山県有朋のやり方なのだ。
また歴史ネタになるが、安倍総理の維新への働きかけが事実とすれば、これは記念すべき第一回の国会で山県総理大臣が野党の一部に働きかけて切り崩しにかかった一件を思い起こさせる。歴史シリーズの一環として、以下そのことについて書きたい。
現在の日本では、選挙で多数を得た政党がその議席を基盤にして政権を作る。だが、日本ではじめに国会ができたときは、そうではなかった。そもそも日本の場合は政府が先にでき、国会はその後にできた。初代総理である伊藤博文と二代目の黒田清隆のときには、政府だけがあって国会はなかった。そして、その状態で選挙が行われて国会が開会されることになるのだが、第一回の衆院選では、「吏党」、つまり政府側の政党は過半数を得ることができなかった。政府が先にあるので、選挙の結果がどうあれ藩閥中心の政府が今後も政権を握ることはもう確定している。ところが、その与党は、過半数を得ていない――という状況が生じてしまったのである。
当然、国会運営は困難なものになることが予想された。
それまでは政府だけが存在していたから、国会に諮ることなしに自分たちの好きなようにやれた。しかし、政府側ではない「民党」が多数を占める国会ではそうはいかない。そのような状況では綱渡り的な政治が要求される。では、その綱渡り的な政治をやってのけたのは誰かというと、山県有朋なのである。
第一回の通常国会では、「民力休養」を掲げる民党が政府の提出した予算案に対して大幅な削減をもとめた。数のうえで多数である民党は政府に攻勢をかけたが、ここで山県が動く。山県は、野党である自由党の土佐派に裏側から工作をしかけて切り崩し、吏党側に引き込むことに成功した。これによって、野党から突きつけられていた予算削減の要求をはねのけて政府は予算案を通すことに成功した。権謀術数政治家・山県有朋の面目躍如である。
これ以後の国会も、“初の本格的な政党内閣”とされる原内閣成立までは、だいたいこんな感じだった。吏党は常に過半数を得ておらず、政府はそのときどきで民党の一部を自分の側に取り込んで国会を乗り切った。基本的に民党を排除しているにもかかわらず板垣退助や大隈重信といった民党側の人たちがときどき入閣しているのは、そういう事情による。政府は重要法案を通すために民党の一部の協力を必要とし、板垣や大隈らは協力の見返りとして自分たちの要求を政府に呑ませる。戦前の日本では、それが“政治”だった。国会よりも憲法よりも先に政府が存在し、憲法ができてからも基本的に閥族中心の政府は存続し続けた。存続させるために、憲法に抜け道を用意していたようなものだ。藩閥政府ありきで制度が組み立てられているのである。これでは立憲主義が機能しないのも当然だろう。
こう書いてくると、安倍総理が橋下大阪市長と会談したというのが、山県有朋が自由党土佐派を切り崩した故事と重なって見えてくるだろう。
もちろんいまの自民党は国会で過半数をもっているが、しかし自分たちの重視する法案を通すために野党の協力を得るべく切り崩しにかかるという構図は同じだ。批判的な世論が拡大している状況に対して、「野党の側も協力しているから、与党だけのごり押しではない」というアリバイ作りをしようとしているわけだ。その背後にあるのは、国会は政府に従属するもので、法案を通すにあたって数合わせさえしておけばいいという根本的な国会軽視である。そしてそれはまた、民意軽視、あるいは無視という姿勢のあらわれでもある。
前回の記事では、上杉慎吉―岸信介―安倍晋三という「全体主義の系譜」について書き、そこに山県もつらなると書いたが、まさにここで山県有朋から安倍晋三までが一本の線としてつながる。安倍首相は山口の出身であるわけだが、前時代的な藩閥政府が現代に甦ったのが安倍政権なのである。そのような“国体論”が戦前の日本の針路を誤らせたというのは、前回も書いたとおりだ。
ここで本稿のタイトルの意味であるが、「無血虫の陳列場」というのは、「東洋のルソー」とも呼ばれた自由民権家・中江兆民の言葉である。
山県が自由党土佐派への切り崩し工作を成功させたとき、国会議員の一人であった中江兆民は、これに憤慨して「竜頭蛇尾の文章を書き前後矛盾の論理を述べ、信を天下後世に失することとなれり(竜頭蛇尾の文章を書いて、矛盾した論理を述べ、将来にいたるまで国会の信頼を失墜させた)」と痛烈に批判し、このような国会を「無血虫の陳列場」と呼んだという。この言葉がそっくりそのままいまの国会にあてはまってしまうところに、日本の政治風土が抱える病根の深さがうかがえる。
追記:石原・橋下の二枚看板で出発した維新だが、いまやその看板は二枚ともなくなり、党は消滅の危機にある。もしここで安倍首相の裏工作にのって安保法制に協力するようなことがあれば、次の選挙でほぼ確実に維新は壊滅するだろう。維新の議員たちは、すでに政界引退を表明しているゾンビ市長の口車に乗って党を壊滅させるような愚をおかすべきではない。
その中身はあきらかにされていないが、安保法案への協力をもとめたものとみられている。このニュースに、私は「やはり」と思った。というのは、これこそまさに、前回書いた山県有朋のやり方なのだ。
また歴史ネタになるが、安倍総理の維新への働きかけが事実とすれば、これは記念すべき第一回の国会で山県総理大臣が野党の一部に働きかけて切り崩しにかかった一件を思い起こさせる。歴史シリーズの一環として、以下そのことについて書きたい。
現在の日本では、選挙で多数を得た政党がその議席を基盤にして政権を作る。だが、日本ではじめに国会ができたときは、そうではなかった。そもそも日本の場合は政府が先にでき、国会はその後にできた。初代総理である伊藤博文と二代目の黒田清隆のときには、政府だけがあって国会はなかった。そして、その状態で選挙が行われて国会が開会されることになるのだが、第一回の衆院選では、「吏党」、つまり政府側の政党は過半数を得ることができなかった。政府が先にあるので、選挙の結果がどうあれ藩閥中心の政府が今後も政権を握ることはもう確定している。ところが、その与党は、過半数を得ていない――という状況が生じてしまったのである。
当然、国会運営は困難なものになることが予想された。
それまでは政府だけが存在していたから、国会に諮ることなしに自分たちの好きなようにやれた。しかし、政府側ではない「民党」が多数を占める国会ではそうはいかない。そのような状況では綱渡り的な政治が要求される。では、その綱渡り的な政治をやってのけたのは誰かというと、山県有朋なのである。
第一回の通常国会では、「民力休養」を掲げる民党が政府の提出した予算案に対して大幅な削減をもとめた。数のうえで多数である民党は政府に攻勢をかけたが、ここで山県が動く。山県は、野党である自由党の土佐派に裏側から工作をしかけて切り崩し、吏党側に引き込むことに成功した。これによって、野党から突きつけられていた予算削減の要求をはねのけて政府は予算案を通すことに成功した。権謀術数政治家・山県有朋の面目躍如である。
これ以後の国会も、“初の本格的な政党内閣”とされる原内閣成立までは、だいたいこんな感じだった。吏党は常に過半数を得ておらず、政府はそのときどきで民党の一部を自分の側に取り込んで国会を乗り切った。基本的に民党を排除しているにもかかわらず板垣退助や大隈重信といった民党側の人たちがときどき入閣しているのは、そういう事情による。政府は重要法案を通すために民党の一部の協力を必要とし、板垣や大隈らは協力の見返りとして自分たちの要求を政府に呑ませる。戦前の日本では、それが“政治”だった。国会よりも憲法よりも先に政府が存在し、憲法ができてからも基本的に閥族中心の政府は存続し続けた。存続させるために、憲法に抜け道を用意していたようなものだ。藩閥政府ありきで制度が組み立てられているのである。これでは立憲主義が機能しないのも当然だろう。
こう書いてくると、安倍総理が橋下大阪市長と会談したというのが、山県有朋が自由党土佐派を切り崩した故事と重なって見えてくるだろう。
もちろんいまの自民党は国会で過半数をもっているが、しかし自分たちの重視する法案を通すために野党の協力を得るべく切り崩しにかかるという構図は同じだ。批判的な世論が拡大している状況に対して、「野党の側も協力しているから、与党だけのごり押しではない」というアリバイ作りをしようとしているわけだ。その背後にあるのは、国会は政府に従属するもので、法案を通すにあたって数合わせさえしておけばいいという根本的な国会軽視である。そしてそれはまた、民意軽視、あるいは無視という姿勢のあらわれでもある。
前回の記事では、上杉慎吉―岸信介―安倍晋三という「全体主義の系譜」について書き、そこに山県もつらなると書いたが、まさにここで山県有朋から安倍晋三までが一本の線としてつながる。安倍首相は山口の出身であるわけだが、前時代的な藩閥政府が現代に甦ったのが安倍政権なのである。そのような“国体論”が戦前の日本の針路を誤らせたというのは、前回も書いたとおりだ。
ここで本稿のタイトルの意味であるが、「無血虫の陳列場」というのは、「東洋のルソー」とも呼ばれた自由民権家・中江兆民の言葉である。
山県が自由党土佐派への切り崩し工作を成功させたとき、国会議員の一人であった中江兆民は、これに憤慨して「竜頭蛇尾の文章を書き前後矛盾の論理を述べ、信を天下後世に失することとなれり(竜頭蛇尾の文章を書いて、矛盾した論理を述べ、将来にいたるまで国会の信頼を失墜させた)」と痛烈に批判し、このような国会を「無血虫の陳列場」と呼んだという。この言葉がそっくりそのままいまの国会にあてはまってしまうところに、日本の政治風土が抱える病根の深さがうかがえる。
追記:石原・橋下の二枚看板で出発した維新だが、いまやその看板は二枚ともなくなり、党は消滅の危機にある。もしここで安倍首相の裏工作にのって安保法制に協力するようなことがあれば、次の選挙でほぼ確実に維新は壊滅するだろう。維新の議員たちは、すでに政界引退を表明しているゾンビ市長の口車に乗って党を壊滅させるような愚をおかすべきではない。