安倍政権は「安全保障環境の変化」を理由にして安保法制の必要性を説いている。安保法制の理解を得るためにビラを作っているが、そのなかには「中国は急速に軍備を増強しつつ、頻繁に尖閣諸島の日本領海に公船を侵入させています」と書いてあるという。また、安倍総理は国会答弁で、具体的な国名こそ挙げなかったものの、“周辺国”のミサイル開発のことに言及した。そのような状況があるから、安保法制が必要だというわけだ。
このブログでは再三、“抑止力”で安全が高まることはない、むしろリスクを高めると書いてきたが、仮に彼らの主張を認めるとしても、それでもなお私は政府の安全保障法制を支持できない。その理由について書いていこうと思う。
つまるところ、本当の“危機”とは何なのかという問題である。
そもそも、われわれはまったく安全な世界に住むことはできない。どんな体制、どんな法律のもとでも、なんらかの危険は存在している。ゆえに、よりリスクの低いほうを選ぶしかない。そこででは、一般民衆にとって危険なものとは何なのか――ということが問題になる。
結論を先にいってしまうと「現代の世界でもっとも深刻な危険は、国家が国民の人権を侵害することである。そしてその危険は、国家間の戦争よりもはるかに大きい」ということになる。
いま世界をみわたしてみれば、不幸な境遇にいる人はたくさんいる。
そのような人々は、国家と国家の戦争によって不幸なのではない。世界で苦しんでいる人の多くは、自分が住んでいる国の抑圧によって苦しんでいる。それが現実だ。本当の脅威は、周辺にある国ではなく、自国に強権的な体制が作られることなのだ。ロシアや中国や北朝鮮をみればそれはよくわかるだろう。
こういうと、「イスラム国」はどうなんだというふうにいう人がいるかもしれないが、「イスラム国」との戦いも、厳密にいえば“国家間の戦争”ではない。ISの台頭は、国家の治安維持能力が脆弱であることに起因するものであり、その根源をたどっていくとやはり抑圧的な国家体制の問題に行き着くと私は考えている(※)。
いまの世界では、武力によって人が死傷しているのも、ほとんどの場合――というか、ほぼ100%――国家と国家の戦争ではない。たとえばウクライナにしても、シリアにしても、基本的には国内の反政府勢力が争乱を起こしていえるのであり、国内の治安機関が脆弱であることが問題なのだ。そう考えると、国家間の戦争というのはある意味で非現実的なのである。
もちろん、その危険がないとはいわない。たとえ可能性は低くとも、ありうるのかもしれない。だが、問題なのは何がより危険なのかということである。国家間の戦争は、現代の世界ではほとんど起きていない。それに対して、強権的な国家が国民を抑圧するということはあちこちの国で起きている。その傾向は、ますます強まっているようにも見える。
そこではじめの問いに戻るが、比較の問題として考えたときには、中国や北朝鮮の脅威よりもむしろ、日本人は日本が強権的・抑圧的な国家に変貌していくことをおそれるべきなのである。現実の世界を見たときには、そちらのほうがはるかに民衆を苦しめているからだ。
そのようにみたとき、安倍政権の政治手法はきわめて危険である。最近の安倍総理は、もはや論理の破綻を取り繕うことができずに、憲法は時の政権が自由に解釈していいというようなことを言い出している。これを許せば、国家はいくらでも憲法をないがしろしにしていくだろう。自民党議員の日ごろの発言や自民党の憲法草案などをみれば、彼らが国民の人権や自由を制限したがっているのはよくわかる。自民党の暴走を許すことは、抑圧的な体制に道を開くことになるのだ。そしてそのことのほうが、中国の公船や北朝鮮のミサイルよりもはるかに脅威なのである。
結論。中国も危険かもしれない。北朝鮮も危険かもしれない。だが、安倍政権のような狂信的集団にフリーハンドを与えることのほうがもっと危険だ。われわれは、本当の危険を見極め、それを防ぐための方策を考えるなければならない。
※抑圧的な国家は、権力維持のために治安機関を私兵化し、ときには自国民に銃をむけることも辞さない。そうした姿勢は国民の反発を招き、それが反体制勢力の勢力拡大を許す。国民のなかに、政府に抵抗する武装勢力に味方したり、その一員になったりする者が出てきて、結果として、長期的には治安を脆弱化させることになる。その証拠に、内戦で苦しんでいる国の多くは、腐敗した体制を持つ、あるいは過去に持っていた国である。イラクやアフガンは、そのもっとも典型的な例といっていいだろう。
このブログでは再三、“抑止力”で安全が高まることはない、むしろリスクを高めると書いてきたが、仮に彼らの主張を認めるとしても、それでもなお私は政府の安全保障法制を支持できない。その理由について書いていこうと思う。
つまるところ、本当の“危機”とは何なのかという問題である。
そもそも、われわれはまったく安全な世界に住むことはできない。どんな体制、どんな法律のもとでも、なんらかの危険は存在している。ゆえに、よりリスクの低いほうを選ぶしかない。そこででは、一般民衆にとって危険なものとは何なのか――ということが問題になる。
結論を先にいってしまうと「現代の世界でもっとも深刻な危険は、国家が国民の人権を侵害することである。そしてその危険は、国家間の戦争よりもはるかに大きい」ということになる。
いま世界をみわたしてみれば、不幸な境遇にいる人はたくさんいる。
そのような人々は、国家と国家の戦争によって不幸なのではない。世界で苦しんでいる人の多くは、自分が住んでいる国の抑圧によって苦しんでいる。それが現実だ。本当の脅威は、周辺にある国ではなく、自国に強権的な体制が作られることなのだ。ロシアや中国や北朝鮮をみればそれはよくわかるだろう。
こういうと、「イスラム国」はどうなんだというふうにいう人がいるかもしれないが、「イスラム国」との戦いも、厳密にいえば“国家間の戦争”ではない。ISの台頭は、国家の治安維持能力が脆弱であることに起因するものであり、その根源をたどっていくとやはり抑圧的な国家体制の問題に行き着くと私は考えている(※)。
いまの世界では、武力によって人が死傷しているのも、ほとんどの場合――というか、ほぼ100%――国家と国家の戦争ではない。たとえばウクライナにしても、シリアにしても、基本的には国内の反政府勢力が争乱を起こしていえるのであり、国内の治安機関が脆弱であることが問題なのだ。そう考えると、国家間の戦争というのはある意味で非現実的なのである。
もちろん、その危険がないとはいわない。たとえ可能性は低くとも、ありうるのかもしれない。だが、問題なのは何がより危険なのかということである。国家間の戦争は、現代の世界ではほとんど起きていない。それに対して、強権的な国家が国民を抑圧するということはあちこちの国で起きている。その傾向は、ますます強まっているようにも見える。
そこではじめの問いに戻るが、比較の問題として考えたときには、中国や北朝鮮の脅威よりもむしろ、日本人は日本が強権的・抑圧的な国家に変貌していくことをおそれるべきなのである。現実の世界を見たときには、そちらのほうがはるかに民衆を苦しめているからだ。
そのようにみたとき、安倍政権の政治手法はきわめて危険である。最近の安倍総理は、もはや論理の破綻を取り繕うことができずに、憲法は時の政権が自由に解釈していいというようなことを言い出している。これを許せば、国家はいくらでも憲法をないがしろしにしていくだろう。自民党議員の日ごろの発言や自民党の憲法草案などをみれば、彼らが国民の人権や自由を制限したがっているのはよくわかる。自民党の暴走を許すことは、抑圧的な体制に道を開くことになるのだ。そしてそのことのほうが、中国の公船や北朝鮮のミサイルよりもはるかに脅威なのである。
結論。中国も危険かもしれない。北朝鮮も危険かもしれない。だが、安倍政権のような狂信的集団にフリーハンドを与えることのほうがもっと危険だ。われわれは、本当の危険を見極め、それを防ぐための方策を考えるなければならない。
※抑圧的な国家は、権力維持のために治安機関を私兵化し、ときには自国民に銃をむけることも辞さない。そうした姿勢は国民の反発を招き、それが反体制勢力の勢力拡大を許す。国民のなかに、政府に抵抗する武装勢力に味方したり、その一員になったりする者が出てきて、結果として、長期的には治安を脆弱化させることになる。その証拠に、内戦で苦しんでいる国の多くは、腐敗した体制を持つ、あるいは過去に持っていた国である。イラクやアフガンは、そのもっとも典型的な例といっていいだろう。