寂しくなるのは誰のせいかな?
ボクはここにいる 早く気づいてよ
赤いルビーのような夜 ビーナスのTATOOも揺れる
スパンコールが眩しいぜ 赤いスプモーニも溶ける
Please Me Please Me I Get Your Soul
1+1に収まらないマーメイド
Please Me Please Me I Get Your Soul
ジェイムスブラウンばりのSoulを
宅配ピザ屋よりも 早く届けたい
トマトベースのLove 隠し味のスパイス
ボクのLovemateグラフィティが広がる
恋のサバイバルナイトフィーバー 恋の世界タイトルマッチ
キミ以外のすべてを犠牲にしてでも 手に入れたいのさ(ダイヤモンド)
奪いたいナイトフィーバー ベルト代わりのキミのKISS
あと ボクのリーチ 30センチ届かない
【YouTube】恋のサバイバルナイトフィーバー/サカノウエヨースケ
金曜日の夜は熱血社交場のイベントで日本語ロックの洗礼を受けうわさの
サカノウエヨースケを全身で体感したわけだけどなんとも愛らしい顔でき
まじめに表現と向き合っていて聞いていた以上に好感が持ててネットでい
ろいろ調べてみたらblogをみつけ「一曲だけの演奏会」というイベントが
これまた面白い試みで読んでみると「小説純度の高い人が好き」とあって
その心情がなんとなくだが共感を呼んで「なるほど西原さんが夢中になる
のもわかるような気がするなあ」と社交場のイベント主催者の心を覗いた
気分になってみたりしたんだよね。
だいたい世紀末ウィーンのエゴンシーレから始まって夭折の画家モディリ
アーニこないだ東京で見たゴーギャンそして第二次大戦を挟んでのマーク
ロスコとボクが興味を抱く画家はみな「自分大好き」な人たちばかりなの
だけど近代から現代へと自己と社会の隔たりが大きくなるにつれて絵画も
抽象へ進むのは一体どうしてなんだろうと思いながら昨日は「日曜美術館」
のMark Rothko「瞑想する絵画」展を食い入るように見ていたらその答え
の糸口みたいなのが見えてこれまた共感したわけなんだけどさ、結局はこ
の混沌する世の中で情報ばかりが大量生産されて消費が追いつかなくなっ
てそれでも情報を生成することが資本主義の信条みたいな現状で脳みその
処理能力をどんどん高めれば情報解析能力も高まるからその分生き易くな
るなんてオダテに乗せられて結局情報に固められた自分しか残ってない…
という事実を抱えていざカンバスに向き合ったら何が具象で何が現実かわ
からなくなっている己に気づいて愕然とする…みたいなさ。
「大切なことはいつも抽象的」ってものすごく言い得ていてガーンと来た
んだけどこれって保坂和志「この人の閾」の言語化されない部分は空白で
しかない…と現代を批判した部分と大きくリンクしていて自分は今どこに
興味を持って生きているのか…といったベクトルみたいなのが「フランダ
ースの犬」の最終回みたいに啓示されていてうれしくなったわけなのよ。
番組中に作家の高村薫がマーク・ロスコの黒い絵画を目の前にして「生き
ている手触り」を感じた…と感嘆するシーンがあって思わず心に涙したん
だけど「見る」行為ってそのまま「生きている=存在する」ことで視覚で
感じたものをただそのまま受け入れ言語化せず文字通り感じることから初
めて己の「生」を客体化できる…といった思惟には背負っていたモノがド
カーンと肩から落ちたような衝撃を受けて「嗚呼」まさにゴーギャンの我
はどこから来たのか…の絵画は一枚のカンバスでそのことを顕していたな
どと勝手に感動していたわけで…つまり何が言いたいかっていうと「写真」
行為って視覚行為そのままを定着させるわけで、ここにも啓示があったと
ひとりごちる。
ボクはここにいる 早く気づいてよ
赤いルビーのような夜 ビーナスのTATOOも揺れる
スパンコールが眩しいぜ 赤いスプモーニも溶ける
Please Me Please Me I Get Your Soul
1+1に収まらないマーメイド
Please Me Please Me I Get Your Soul
ジェイムスブラウンばりのSoulを
宅配ピザ屋よりも 早く届けたい
トマトベースのLove 隠し味のスパイス
ボクのLovemateグラフィティが広がる
恋のサバイバルナイトフィーバー 恋の世界タイトルマッチ
キミ以外のすべてを犠牲にしてでも 手に入れたいのさ(ダイヤモンド)
奪いたいナイトフィーバー ベルト代わりのキミのKISS
あと ボクのリーチ 30センチ届かない
【YouTube】恋のサバイバルナイトフィーバー/サカノウエヨースケ
金曜日の夜は熱血社交場のイベントで日本語ロックの洗礼を受けうわさの
サカノウエヨースケを全身で体感したわけだけどなんとも愛らしい顔でき
まじめに表現と向き合っていて聞いていた以上に好感が持ててネットでい
ろいろ調べてみたらblogをみつけ「一曲だけの演奏会」というイベントが
これまた面白い試みで読んでみると「小説純度の高い人が好き」とあって
その心情がなんとなくだが共感を呼んで「なるほど西原さんが夢中になる
のもわかるような気がするなあ」と社交場のイベント主催者の心を覗いた
気分になってみたりしたんだよね。
だいたい世紀末ウィーンのエゴンシーレから始まって夭折の画家モディリ
アーニこないだ東京で見たゴーギャンそして第二次大戦を挟んでのマーク
ロスコとボクが興味を抱く画家はみな「自分大好き」な人たちばかりなの
だけど近代から現代へと自己と社会の隔たりが大きくなるにつれて絵画も
抽象へ進むのは一体どうしてなんだろうと思いながら昨日は「日曜美術館」
のMark Rothko「瞑想する絵画」展を食い入るように見ていたらその答え
の糸口みたいなのが見えてこれまた共感したわけなんだけどさ、結局はこ
の混沌する世の中で情報ばかりが大量生産されて消費が追いつかなくなっ
てそれでも情報を生成することが資本主義の信条みたいな現状で脳みその
処理能力をどんどん高めれば情報解析能力も高まるからその分生き易くな
るなんてオダテに乗せられて結局情報に固められた自分しか残ってない…
という事実を抱えていざカンバスに向き合ったら何が具象で何が現実かわ
からなくなっている己に気づいて愕然とする…みたいなさ。
「大切なことはいつも抽象的」ってものすごく言い得ていてガーンと来た
んだけどこれって保坂和志「この人の閾」の言語化されない部分は空白で
しかない…と現代を批判した部分と大きくリンクしていて自分は今どこに
興味を持って生きているのか…といったベクトルみたいなのが「フランダ
ースの犬」の最終回みたいに啓示されていてうれしくなったわけなのよ。
番組中に作家の高村薫がマーク・ロスコの黒い絵画を目の前にして「生き
ている手触り」を感じた…と感嘆するシーンがあって思わず心に涙したん
だけど「見る」行為ってそのまま「生きている=存在する」ことで視覚で
感じたものをただそのまま受け入れ言語化せず文字通り感じることから初
めて己の「生」を客体化できる…といった思惟には背負っていたモノがド
カーンと肩から落ちたような衝撃を受けて「嗚呼」まさにゴーギャンの我
はどこから来たのか…の絵画は一枚のカンバスでそのことを顕していたな
どと勝手に感動していたわけで…つまり何が言いたいかっていうと「写真」
行為って視覚行為そのままを定着させるわけで、ここにも啓示があったと
ひとりごちる。