踊りながら念仏を唱え、
人生の後半16年間、ひたすら日本各地を遊行し命尽きた私度僧、
一遍上人の一生を描いた本書「踊る一遍上人」を読了。
「五蘊の中に衆生をやまする病なし、四大の中に衆生をなやます煩悩なし」
すべての存在を成立させている要素である五蘊(色・受・想・行・識)のなかには、
本来衆生を害する病気の原因はない。また、人間の関係を形作っているとされる
四大(地・水・火・風)には、元々衆生を悩ませる欲望などは一切含まれていない。
要するに、それら苦悩の原因のすべては、人間自身が勝手にこしらえた災いなのだ。
「念仏の行者は、智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界も捨て、貴賤高下の道理も捨て、
地獄をおそれる心も捨て、極楽を願う心も捨て、又諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて
申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかない候へ。」
念仏を唱えたところで、ふつうに言われている仏の来迎による極楽往生はありえない。
つまりは、浄土は外部に存在するのではなく、あなた自身の心の中にある。
妄執にとらわれ煩悩にとらわれ、己自身の存在の尊さに気づかぬまま、一生を終える人のなんと多いことか。
見よ大地よ、自然よ、この生命の氾濫を。
あの仔馬を見よ。全身に悦びを顕して、あんなに跳んだり跳ねたりしているではないか。
鳥だってそうだ。可憐な声を張り上げて、感謝の気持ちを精一杯伝えようとしている。
山川草木ことごとくが、生命の讃歌を歌っているのだ。これが宇宙というものなのだ。
これが大宇宙に生きるモノの実相なのだ。
なんというお方であろうか。
生きているその事実をそのまま受け入れろ…と一遍は語っている。
その歓喜をそのまま顕せ…と。
「踊る」とは、自然との交歓。
「合歓」である。自然と寄り添い、歓喜する…ことが「踊り」なのだ。
ニッポンのダンスの原型がここに在った。
人生の後半16年間、ひたすら日本各地を遊行し命尽きた私度僧、
一遍上人の一生を描いた本書「踊る一遍上人」を読了。
「五蘊の中に衆生をやまする病なし、四大の中に衆生をなやます煩悩なし」
すべての存在を成立させている要素である五蘊(色・受・想・行・識)のなかには、
本来衆生を害する病気の原因はない。また、人間の関係を形作っているとされる
四大(地・水・火・風)には、元々衆生を悩ませる欲望などは一切含まれていない。
要するに、それら苦悩の原因のすべては、人間自身が勝手にこしらえた災いなのだ。
「念仏の行者は、智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界も捨て、貴賤高下の道理も捨て、
地獄をおそれる心も捨て、極楽を願う心も捨て、又諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて
申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかない候へ。」
念仏を唱えたところで、ふつうに言われている仏の来迎による極楽往生はありえない。
つまりは、浄土は外部に存在するのではなく、あなた自身の心の中にある。
妄執にとらわれ煩悩にとらわれ、己自身の存在の尊さに気づかぬまま、一生を終える人のなんと多いことか。
見よ大地よ、自然よ、この生命の氾濫を。
あの仔馬を見よ。全身に悦びを顕して、あんなに跳んだり跳ねたりしているではないか。
鳥だってそうだ。可憐な声を張り上げて、感謝の気持ちを精一杯伝えようとしている。
山川草木ことごとくが、生命の讃歌を歌っているのだ。これが宇宙というものなのだ。
これが大宇宙に生きるモノの実相なのだ。
なんというお方であろうか。
生きているその事実をそのまま受け入れろ…と一遍は語っている。
その歓喜をそのまま顕せ…と。
「踊る」とは、自然との交歓。
「合歓」である。自然と寄り添い、歓喜する…ことが「踊り」なのだ。
ニッポンのダンスの原型がここに在った。