12/01映画の日。やっとの思いで「希望の国」を観る。
「希望の国」
エンドロール手前で、園子温監督が書いた題字が画面に大きく出た。
映画の中で、希望は描かれていない。
描かれているのは、この現在進行形なニッポンの歪みそのままだ。
南相馬をロケ地に、被災のナマの状況をスクリーンに大写しにしたこの映画は、
日本では当然のように疎ましく扱われ、出資金も思うように集まらず、
結局は海外に援助を求めたカタチで成立をみた…という。
「映画は日本においてはアートではない、エンターテインメントの域を出ないんです」
…と園子温監督は語る。日本において映画は、どこまでも興行できるかどうかが問題なのだ。
それはなにも映画に限った話ではなく、
政事も含め、すべてのジャッジが近視眼的に行われている。
ひとつひとつをしかと解決させることなく、次のステージへとコマを進め、
未解決な事象を隠蔽してきた。その繰り返し。
いつから日本は、こんなにけじめの付けられない国に成り下がったのだろう。
今回の総選挙でも、福島の現実や、沖縄の基地問題は決して論点にはならない。
普天間の移設を初めとする沖縄の今後を、日米はどう考えていくのか、
原発で汚染され、森林はどうしようもない線量にまで蓄積された福島の未来を、どう描いていくか、
ニッポンがどのような道を進んでいくのかの明確な「物語」は誰も示し得ていない。
あるのは、尖閣諸島や竹島における陳腐なナショナリズムな話だけ。
憲法改正して戦力を増強することで、ニッポンがどんな国になるのか、
そういった中身の話は、誰もしようとしないのだ。
痛いところ、醜いところ、汚いところは、そのままおざなりに
キレイゴトばかりを並べ、薄っぺらなオプティミズム論ばかり。
その柱となるのが、経済問題というカテゴリー。
どこまでもカネで解決させようとしている、金満国家ニッポン。
「希望の国」は園監督なりの、問題提起である。
今のニッポンはどこまでも浮ついていて、
足下をシカと見ようともしない。
フクシマ・ミヤギ・イワテがいまどんな状況下でいるのか。
己の幸福ばかりに目を奪われているこの国の国民は、
自分たちの人生だけですべてを終わりにしようとしているのか。
その先をどうしていこうという強い意志はあるのか。
園監督は原発問題を軸に、その根幹を問い糾しているのだ。
「希望の国」
エンドロール手前で、園子温監督が書いた題字が画面に大きく出た。
映画の中で、希望は描かれていない。
描かれているのは、この現在進行形なニッポンの歪みそのままだ。
南相馬をロケ地に、被災のナマの状況をスクリーンに大写しにしたこの映画は、
日本では当然のように疎ましく扱われ、出資金も思うように集まらず、
結局は海外に援助を求めたカタチで成立をみた…という。
「映画は日本においてはアートではない、エンターテインメントの域を出ないんです」
…と園子温監督は語る。日本において映画は、どこまでも興行できるかどうかが問題なのだ。
それはなにも映画に限った話ではなく、
政事も含め、すべてのジャッジが近視眼的に行われている。
ひとつひとつをしかと解決させることなく、次のステージへとコマを進め、
未解決な事象を隠蔽してきた。その繰り返し。
いつから日本は、こんなにけじめの付けられない国に成り下がったのだろう。
今回の総選挙でも、福島の現実や、沖縄の基地問題は決して論点にはならない。
普天間の移設を初めとする沖縄の今後を、日米はどう考えていくのか、
原発で汚染され、森林はどうしようもない線量にまで蓄積された福島の未来を、どう描いていくか、
ニッポンがどのような道を進んでいくのかの明確な「物語」は誰も示し得ていない。
あるのは、尖閣諸島や竹島における陳腐なナショナリズムな話だけ。
憲法改正して戦力を増強することで、ニッポンがどんな国になるのか、
そういった中身の話は、誰もしようとしないのだ。
痛いところ、醜いところ、汚いところは、そのままおざなりに
キレイゴトばかりを並べ、薄っぺらなオプティミズム論ばかり。
その柱となるのが、経済問題というカテゴリー。
どこまでもカネで解決させようとしている、金満国家ニッポン。
「希望の国」は園監督なりの、問題提起である。
今のニッポンはどこまでも浮ついていて、
足下をシカと見ようともしない。
フクシマ・ミヤギ・イワテがいまどんな状況下でいるのか。
己の幸福ばかりに目を奪われているこの国の国民は、
自分たちの人生だけですべてを終わりにしようとしているのか。
その先をどうしていこうという強い意志はあるのか。
園監督は原発問題を軸に、その根幹を問い糾しているのだ。