『サウルの息子』@シネマカリテ
鍵穴から覗くような被写界深度の浅い映像。
映画なのに、シネマスコープのヨコ拡がりある画額ではなく、2:3のサイズ。
アウシュビッツ絶滅収容所の話である…といったト書きも説明文もナレーションも全くなし。
つねに主人公である“ゾンダーコマンド”サウルの顔が、画面を占めている。
移送されたユダヤ人の衣服を脱がせ「シャワーを浴びろ」とガス室に送り、
鉄扉を閉め、ガスに苦しめられ阿鼻叫喚を挙げる同胞の声を聞き、
山積みとなった裸の死体を引き摺りながら焼却炉へ運び、大量の灰燼を川へ投げ込む。
来る日も来る日も繰り返される大量殺戮。
もはや感覚を喪ったサウルの視界を表すように、映像はどこまでも曖昧で昏い。
ただひとつの状況説明である音が、鋭敏に耳に届く。
抵抗する女の声…鉄鍵の鈍い響き…死体を引き摺る音…
蜂起を企てるコマンド同志のささやき…
大量のユダヤ人を運ぶトラックのエンジン音…
灰燼にささるスコップの音…。
1944年10月の絶滅収容所内に視覚と聴覚だけが入れ込まれたような、
そんなソリッドな感覚で最後まで見入ってしまった。
全篇フィルムの映像がすばらしい。
後半、蜂起を決行し、息子を背負い逃走するシーン、
今までの収容所の陰鬱な昏い画面が一転、
緑と光と瑞々しさに溢れた絵になるのだけど、夕陽がレンズに差し込み、
「生きる」ことそのものが起ち上がるような高揚感に満たされる。
何を以て【人間】とするのか…。
塚本晋也監督の『野火』も人を食ってまで生きる兵士を描くことで
【人間】尊厳の臨界点を示した作品だったけど、
『サウルの息子』もまた、
非人道の極みにおいて【人間】であり続けるとは?どういう思考なのか、態度なのか…、
そのことを差し示すことで、日常における私たちの思考停止に警鐘を打つ。
朝、列車内にすし詰めとなったサラリーマンの様態も、
肉体感覚をオフにすることで成立している…という観点でいえば、
非人間的な営みなのだと、ボクは思う。
そのような感覚遮断が日常化すると、大切にすべき【人間】の尊厳が喪われていくのだ。
鍵穴から覗くような被写界深度の浅い映像。
映画なのに、シネマスコープのヨコ拡がりある画額ではなく、2:3のサイズ。
アウシュビッツ絶滅収容所の話である…といったト書きも説明文もナレーションも全くなし。
つねに主人公である“ゾンダーコマンド”サウルの顔が、画面を占めている。
移送されたユダヤ人の衣服を脱がせ「シャワーを浴びろ」とガス室に送り、
鉄扉を閉め、ガスに苦しめられ阿鼻叫喚を挙げる同胞の声を聞き、
山積みとなった裸の死体を引き摺りながら焼却炉へ運び、大量の灰燼を川へ投げ込む。
来る日も来る日も繰り返される大量殺戮。
もはや感覚を喪ったサウルの視界を表すように、映像はどこまでも曖昧で昏い。
ただひとつの状況説明である音が、鋭敏に耳に届く。
抵抗する女の声…鉄鍵の鈍い響き…死体を引き摺る音…
蜂起を企てるコマンド同志のささやき…
大量のユダヤ人を運ぶトラックのエンジン音…
灰燼にささるスコップの音…。
1944年10月の絶滅収容所内に視覚と聴覚だけが入れ込まれたような、
そんなソリッドな感覚で最後まで見入ってしまった。
全篇フィルムの映像がすばらしい。
後半、蜂起を決行し、息子を背負い逃走するシーン、
今までの収容所の陰鬱な昏い画面が一転、
緑と光と瑞々しさに溢れた絵になるのだけど、夕陽がレンズに差し込み、
「生きる」ことそのものが起ち上がるような高揚感に満たされる。
何を以て【人間】とするのか…。
塚本晋也監督の『野火』も人を食ってまで生きる兵士を描くことで
【人間】尊厳の臨界点を示した作品だったけど、
『サウルの息子』もまた、
非人道の極みにおいて【人間】であり続けるとは?どういう思考なのか、態度なのか…、
そのことを差し示すことで、日常における私たちの思考停止に警鐘を打つ。
朝、列車内にすし詰めとなったサラリーマンの様態も、
肉体感覚をオフにすることで成立している…という観点でいえば、
非人間的な営みなのだと、ボクは思う。
そのような感覚遮断が日常化すると、大切にすべき【人間】の尊厳が喪われていくのだ。