#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Jul_30】世界全体が、歯止めのかからない競争地獄に陥ってしまっている。

2016-07-30 | BOOKS&MOVIES
小栗康平コレクション第4弾『眠る男』

前田…
近代の富というものは、国家ぐるみで追求して、国民全体でできるだけ金持ちになろうということですね。
経済成長というやつ。それは、最初のうちは世界の中でごく一部の国家や社会が追求していて、それ以外のところは
はじかれていたんだけど、今や世界中が近代の富を公然と追求している。

どんな政治体制であろうと国家は近代の富だけを公然と追求する。

そうなると、もう互いに奪取しあうしかない。この競争ですね。この競争があまりヒドイものにならないように
約束を決めようっということで、貿易協定なんんかがあるんだろうけど、そんなことじゃこの競争は止まらない。

世界全体が、歯止めのかからない競争地獄に陥ってしまっている。
それをグローバリズムとか云うのでしょう。取り返しのつかないことになると思いますよ。


小栗…
国民国家などという国家形態はたかだか二百年にもならない。
国が単位で争いを起こし、戦をし、戦にまで至らないとしても抑止力と称して殺戮兵器を準備し続ける。
これらはみな、国民国家という枠組みの弊害です。
そう考えると、江戸時代の幕藩体制って豊かだったなあと思うよね。(笑)
おらが村がクニなのであって、国家なんて知ったこっちゃないもんね。

(小栗康平コレクション4『眠る男』_小栗康平×前田英樹対談より)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【Jul_30】小栗康平コレクション4『眠る男』

2016-07-30 | BOOKS&MOVIES
小栗康平コレクション第4弾『眠る男』

オリジナル脚本
製作:群馬県
出演:役所広司、安聖基(アン・ソンギ)、クリスティン・ハキム、他

中之条は伊参スタジオで、長年の友Jaime_Humphleysが作品を制作したことがキッカケで
小栗康平監督の『眠る男』オープンセットと運命的な出会いをし、それ以来いつか観るぞと誓っていた作品。
(写真はそのときの模様。12_Oct.2015_Jaime_Humphreys「Lie of the Land」@中之条ビエンナーレ伊参スタジオ

想像以上に見応え十分の、実写版「トトロ」とも言える世界観でした。

主人公はタイトルどおり『眠る男』。
山男で世界の山々に精通した「拓次」がなぜか地元群馬の山奥で滑落し、意識不明の状態で「ワタル」に発見される。
「ワタル」は知的障害があるが、オカリナを見事に奏でる男。若き小日向文世が演じている。農村の年老いた父母の許で、昏々と眠り続けている。
その謎めいた事故で『眠る男』となった「拓次」を中心に、つながりのある人々が「拓次」との接点を語る間接話法の映画。
つまり、主人公である「拓次」は何も語らず、全篇を通して横たわっている。その存在感が、素晴らしい。
その主人公の「不在」を話の中心に、「同級生」たちやスナックで働く「南の女」たち、
「水車の老人」「自転車置き場のオモニ」「父と母」「親戚の人」たちが、「拓次」を語ることで映画は進行する。

  『眠る男』のプロットは、厳格なまでに単純なものです。
  拓次という山に魅せられた青年が、谷で意識を失って発見される。
  発見したのは、ワタルです。病院で治療したけれども、意識は戻らず、
  治るあてもなく家に戻り、寝たきりで両親の世話になっている。
  あんなに山に精通していた拓次が、なぜ谷に落ちたのか、そもそも彼は何をしにそこへ行ったのか。
  (中略)
  映画内で起こる最大にして唯一の出来事は、拓次の死でしょう。
  死なれてしまうと、それじゃあいつはどこに行ったのか、今どこにいるのか、という疑問が、
  新たに人々のなかに湧いてくる。湧いて止まないものとしてね。
  そこに、この映画が差し出すテーマはあると思う。つまり、
  死ねば人はどこへ行くのか、です。
  たぶん、拓次は森に戻ったのでしょう。けれど、その森とは何か…ですね。
  
(談 小栗康平)

この不在感が、この映画の核心である。だから、画額は常に遠景ショットだ。
人物が非常に小さい配置で、その全景となる群馬の森や町を主体的に扱っている。
そのショットを監督は、「述語が主語を包摂する」という言い方をしていた。
人物は「場」に包摂されている…ということ。
引きのショットによって、写り込む様々な事象、その存在をすべて肯定する、信頼する。
そこからこの映画は成立しているのだ…と。
群馬の山並みと、群馬の町の営みと。そういった遠景に配される人々の生活と。
それらすべてを画面に入れ込むことで、包摂する世界全体を全肯定する。
「述語が主語を包摂する」とは、そういうこと。この世界を信頼するところから、この映画は始まるのだ。
 
  本当に大事なことは肯定形でしか伝わらない。
  主語を強調することで、こんな自分ではダメではないか、そんなお前ではダメではないか、
  となって、狭いところへ陥ってしまいがちなんですが、
  そこを抜け出すための…試みでもありました。
 (談 小栗康平)

人間の背丈を中心としたフレームではない映画。樹木や森のスケールを基準に撮られた映画。
だから、後半「上村」は「拓次」に問いかける。
  
  人間って、大きいんかい?小さいんかい…。

後半、『眠る男』の拓次の魂が、小さな竜巻と共にカラダから出て行くシーンがある。
そこに居合わせた人たちが、家中「拓次」「拓次」と魂に呼びかけ、【魂の読み戻し】をする。
しかし、拓次の魂は戻らない。
その戻らない有り様を、巧みなロングショットで…無人の温泉場や…無人の水車場を撮ることで…表出する。
    「魂が森に還っていく」
生まれて、そして死んで…の生の循環に、全景としての里山の風景が、在る。

最後に、山間の開けた場所で人々が野外能を鑑賞するシーン。
生と死を「橋掛かり」する能楽を持ってくることで、この世界は決して確固としたものではなく、
まして人知で計り知れるほど矮小なものでもなく、生死一如なもの。自然とともにあるもの。

人の枠組みにすべての事象を合わそうとするのではなく、
(そういう論理を強要しているのが【社会】という存在)
感覚を研ぎ澄まし、自身が感知できる領域を押し広げる。
それが引いては、【世界】を知るということ。

「わたしが在る…そのことが【世界】のはじまりである」

最後に小栗監督のコトバで締めたい。

    映画が人類に向かってできる最大の貢献は、
  〈在るものへの信仰〉を直接に、一挙に取り戻せることだと思います。
  そういう映画が生まれ続けることは、人類の死活問題と言っていいくらいだ。



Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする