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365kimono なきゃつくる料理

谷川雁さんの目指したラボ

2010-03-26 18:15:37 | 英語 / English class
ラボ創設から15年関わられた谷川雁さん。
私が小学5年ごろまでラボにいらしたそうです。つまり私はその思想のラボの中に7年間いたことになる。

文献が何も手元にありません。ネットで必死にさがしオーダーしたばかり。

さてそんな何もない状態での今の私の理解範囲。

選りすぐりのお話を、
一流の俳優の美しい英語と日本語が吹き込まれたラボライブラリー。

字は見ない。耳でひたすら聞き続け、聞き取れたものをテーマ活動で発する。まず目標はライブラリーとそっくりに言えること。

それがそっくりにできてから、自分の解釈でここはこうするほうがいいかもなどのアレンジOK。


これぐらいしかわからないのですが、効果の大きさはこどもの時から体感してきました。そっくりになる=中途半端じゃない、完璧なコピー(文法をさすのではなく、発音、イントネーション、間合い、感情の含み具合の全て)は、そのことばが自分のもの、自由自在に使えるものになるのです。


それから、選りすぐりの話、そのものを、単語や語尾を適当に変えたり、とかをまったくしないで、作家の全神経がこもった一語一句をたどると、はじめて話の真髄がみえるのです。解釈をとても楽しめます。

そこまで理解が深まったこどもが、セリフなどを完璧なコピー(上記参照)をできた上で表現する劇活動の発表は、当然、見る人に訴えるものまで表現できるレベルにおのずとなっていること。そしてそこまで覚えたメンバー同士なら、何人で言おうがナレーション・セリフが完璧に揃います。


そういうラボの劇活動(テーマ活動)の発表は、観客からみてとても気持ちがいい状態です。


(補足!!!同じセリフをいうのが複数人数の場合は、自分の理解がいかに深かろうが、ライブラリーどおりにすることがが、揃えるための自発的マナーとなる。ジャズやフラメンコのライブと同じかもしれない。本来は極めればそこが醍醐味ではあるのだが、自己解釈=アドリブを加えるには、一緒にプレイするメンバーがそのアドリブに応じるレベルにあるのが大前提。共演者(=一緒の楽器や振り付けで、「同じパート」を受け持つ者同士)にそれがないのに、ひとりアドリブ加え続けていては、共演者が居心地悪く、一人目立ちの勝手に満足、という、舞台としては、空気の揃わない、みていて面白くない状態になる。補足終わり。)


私がこどもの頃はこれが当たり前の感覚があって、文字で覚えた子はそれが丸ばれで恥ずかしい、と思ってたはずだが、


やはり、思想は伝達されなければ、そこらへんまあてきと~になってしまいがち。それじゃあもどかしすぎて、血行不良をおこしそうである。


こどもの成長は待たないといけない。
でもガイド・ファシリテートなしでは、一生気がつかないまま、
折角の宝物が活かされずに終わるということもでてくるだろう。
そのリスクを負ってまで待つのがいいか。

私はこどもたちが気づけるようにファシリテートをしたい。
こどもたちには耳だけで覚えたセリフ、ナレーションで、物語の真髄にまで到達してほしい。そこまでいけばあとはすばらしい世界がおのずと開けます。


そう願います☆


追記~そう、耳重視のあまり、絵本すらみませんでした。真面目な子すぎて、文字をみてはいけない気持ちと、絵をみることで、テーマ活動への想像力が限定されるような気がしていたのです。

でも絵本講師視点でいえば、当時もっと絵をちゃんと読むべきだったなぁと思います。

あ、いや、どうだろう(笑)
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