アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

「落語」で落ち着いてきた

2007-09-05 | Weblog
 郡山に来て半年。どうにも心が荒んでいたが、落語の効用を思い出して再び聞き始めた。1週間。なるほど、心が落ち着いてきた。


 「寄席文字」の第一人者である橘左近さんの著書を見ると、落語の興りは桃山時代から江戸初期にかけての頃。いわゆる戦国武将の時代に興ったらしい。武将をはじめ戦いに明け暮れていた戦士たちの心労を癒すための、慰安の役を担っていた話上手が、「噺家」の走りと言う。

 まず朗らかでなくてはいけない。しかし、そればかりでも役をこなせなくて、一方では聴き手の武将たちを納得させるだけの広範な知識も必要とされたらしい。

 確かに、現代に残る古典落語も、教育が広く施されなかった時代には博識とされた人が語ったような内容が多い。さらには、心を癒すことを目的としているのだろう。「爆笑」を求めるような話はほとんどない。

 にんまりさせたり、中にはしんみりさせたりする。やんわりとした風刺もあるが、面と向かっての攻撃や、強い否定はない。笑いの中にも強烈な風刺を孕むチャップリンの喜劇とは違う。


 たしかに、心をやわらげてくれる。

 相手を否定しない。不機嫌なことも不幸なことも、洒落た茶化しで済ます。

 味方はつくるが敵はつくらず、飄々と世を渡っていく。これには、戦国武将は憧れたはずだ。

 チャップリンのようなインパクトはないものの、どんな強風にも対応できるしなやかさをもつ。折れない木だ。日本人って、すごい。

 闘わずして勝つ「無手勝つ流」を最上とするのが、争いごと。大げさに言えば、武将たちは、落語の中にこそ「最強の武将」の姿が見たのかもしれない。

 いちいち負けない。いちいち傷つかない。そんな人間でありたい。そして、子どもをそんな人間に育てたい。
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