22日、福島空港で陶芸家宗像利浩氏の個展とギャラリートークが行われたので、家族で出掛けた。
「先生の作品だけを集めた規模の小さな展示会を見たい」というのが、ここ数年来の待望だった。本当に素晴らしい展示会だった。
日本陶芸展の2期連続の招待作家。先生の個展となると、地方ではなかなか実現しない。車で約一時間の、こんな近くで質の高い展覧会に接することは本当に幸運だった。
以前、話す機会があったときのこと。
「出来の気に入らない作品は、割ってしまうんですか」と問うた。それに対する利浩先生の答えが、先生の人間性と作品の格、温もりを感じさせるものだった。
「出来のよしあしで自分が作った器を割るなんてことは、到底できません。生まれてきた子どもが、もし足や手が不自由だったからといって殺すことができますか。みんな短所を持ち、長所を持っているのです。誰かに買っていただいて、使っていただいて、見つめていただいて、器は自分で頑張って伸びていくんです。もし、誰も買ってくれなかったら、自分で大切に使い続けます」
器に、その人間性が反映されているのだ。
妻も、茶の湯を嗜んでいるので、息子の世話を私と交替してから、先生の解説付きで展覧会を堪能していた。
23日は、午前中は息子と開成山公園で遊んだ。妻に仕事をさせる時間をつくるためだ。午後は英会話教室。
息子と遊んだり、世話をしていると、連休も瞬く間に過ぎていく。
自分のしたいことがなかなかできない。「時間の浪費」という感覚にとらわれる。
子育てに関わらないならば、多くの時間を得て、多くのことができるだろう。しかし、子どもがいるのならば、子育てを妻任せにしているような男は、もはや「遅れた男」に違いない。子どもが成長すれば、1対1の個として対峙しなくてはいけない時がくる。そんなとき「仕事」や「つきあい」などは、脆弱な言い訳にしかならないだろう。幼いうちから子どもに正対して、子育ての現場に立ち会うべきだ。
窯だしの器を割ることができる、そんな人間にはなりたくない。
英会話教室でも、息子は音楽教室と同様に悪ふざけばかりしていた。俺の子だから、多分、不真面目なのは遺伝だ。でも、相手の立場に立って考える心も遺伝してほしいなぁ。
器を見る「目」、人を見る「目」を育ててほしい。
「先生の作品だけを集めた規模の小さな展示会を見たい」というのが、ここ数年来の待望だった。本当に素晴らしい展示会だった。
日本陶芸展の2期連続の招待作家。先生の個展となると、地方ではなかなか実現しない。車で約一時間の、こんな近くで質の高い展覧会に接することは本当に幸運だった。
以前、話す機会があったときのこと。
「出来の気に入らない作品は、割ってしまうんですか」と問うた。それに対する利浩先生の答えが、先生の人間性と作品の格、温もりを感じさせるものだった。
「出来のよしあしで自分が作った器を割るなんてことは、到底できません。生まれてきた子どもが、もし足や手が不自由だったからといって殺すことができますか。みんな短所を持ち、長所を持っているのです。誰かに買っていただいて、使っていただいて、見つめていただいて、器は自分で頑張って伸びていくんです。もし、誰も買ってくれなかったら、自分で大切に使い続けます」
器に、その人間性が反映されているのだ。
妻も、茶の湯を嗜んでいるので、息子の世話を私と交替してから、先生の解説付きで展覧会を堪能していた。
23日は、午前中は息子と開成山公園で遊んだ。妻に仕事をさせる時間をつくるためだ。午後は英会話教室。
息子と遊んだり、世話をしていると、連休も瞬く間に過ぎていく。
自分のしたいことがなかなかできない。「時間の浪費」という感覚にとらわれる。
子育てに関わらないならば、多くの時間を得て、多くのことができるだろう。しかし、子どもがいるのならば、子育てを妻任せにしているような男は、もはや「遅れた男」に違いない。子どもが成長すれば、1対1の個として対峙しなくてはいけない時がくる。そんなとき「仕事」や「つきあい」などは、脆弱な言い訳にしかならないだろう。幼いうちから子どもに正対して、子育ての現場に立ち会うべきだ。
窯だしの器を割ることができる、そんな人間にはなりたくない。
英会話教室でも、息子は音楽教室と同様に悪ふざけばかりしていた。俺の子だから、多分、不真面目なのは遺伝だ。でも、相手の立場に立って考える心も遺伝してほしいなぁ。
器を見る「目」、人を見る「目」を育ててほしい。
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