アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

質の高い人

2007-09-20 | Weblog
 人生経験の豊かな人、知識の豊富な人、さらには、人の心をつかむことを熱心に研究している経営者や犯罪者、芸能人など、確かにみな興味を引く人が多い。

 しかし、「賛同」はできてもそれを超えた「感動」を与えてくれる人は、前述した職業の人には少ない。与えてくれるのは、概ね、慎ましやかな教養の豊かな人だ。学者、研究者の類が、一番、それに近いのではないかと思う。

 原因としては、俗な利益、功名心にあまり頓着しないからではないか。かつてはそんな類の「報道人」もいたと思うのだが、今は皆無だ。少なくとも、私の身の回りに品格のある報道人はいない。




 昔の人は、才のある子どもに「末は博士か大臣か」と、立身出世を願った。昔は偉い政治かもいたのだろうと思う。さらに立身出世とは、人のために役立つ人間になることであった。

 しかし、今は「大臣」を尊敬したり、目指している人は、政治家秘書くらいのものだろう。もはや、「大臣」というものは人として尊敬の対象ではない。「博士」の方が断然に上だと思う。品も格も。


 そういう訳で、真に教養の高い人、魅力的な人というのは学者などの高い教育を受けた人に多い。経験的な統計である。

 政治家や経営者や芸能人などのような「卑しさ」を帯びていないからだ。実は、みなそう思っているのかもしれない。差別的だから言葉には出せないのかもしれない。



 だから、息子にはなるべく経営者や政治家ではなく学者を目指してもらいたい。実現できなくても、基本的な考え方は「学者」であってほしい。



   ◇

 ところで、そんな話には矛盾するが、いわゆる高等教育は受けてなくてもすごい人を私は知っている。

 「陶芸家」である。


 彼らの仕事は、実は大変な力仕事である。良いものを創る為には、まず体力を充実させなくてはいけない。体力の充実が気力の充実となる。

 彼は、朝4時に起きてウエートトレをする。そして、なにより彼は「使う人」を意識する。

 これが偉い。自分のためでなく、人のために創っている。このあたりの感覚は、人類のために、社会のために、というモチベーションを持つごく一部のレベルの高い学者や音楽家などに共通する。




    ◇

 私にとって、宝物は家族である。それに次ぐモノは、いま使っている彼のつくってくれた御飯茶碗である。

 抹茶碗にも使えるくらいの手の馴染みである。唇への当たりも良い。

 さらに、手にすると、彼がろくろをどう回して、どう力を入れてつくったかが想像できる。

 飯を盛って手にすると、安心感に包まれる。値段? もちろんない。


 触れるだけで人を幸福にしてくれる。そんな器をつくるには、どれほどの道程を経たのだろう。学を極める人と同じような、急峻な道だったと思う。


    ◇

 きょうの、ある宴会。報道人と呼ばれる人たちの話は、みな自分や自分の所属する会社の利益についてばかり。いやはや、社会を良くしたいなどという話が出てこないのに驚き、失望した。こんなにはレベルの低い人たちとは。

 茶碗をもってみなさい。それで分からないなら、取り合えず、何かの展覧会やコンサートなどに行きなさい。
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