今夜(15日)のNHK「クローズアップ現代」で、児童虐待対策の問題点を取り上げていた。
「児童相談所」について、ようやく論じ始めたんだ、というのが実感。もう、何人の命を見捨ててきたんだ?
児童相談所。まず、職員たちの意欲は決して、高いとは言えない場合が多い。
どの行政でも、忙しい職場を敬遠する人たちが集まる傾向。
若い頃から、波風のない公務員生活を志向し平穏な退職を目指している、そういう傾向の強い職場。もう何十年も前から、そう。
たとえ、幼児虐待の事実を認識しても「そうでない可能性」を模索し続け、幼児が死亡するまで問題を先送りし続けてきたのだと思う。
幼い生命が、親にさえも否定され、身体的な苦しみと、救いがたい絶望とを抱きしめながら、消えて行ってしまっても、職員は「よりによって、なんで自分の周りで…」といった程度の認識なのではないか。
問題家庭を訪問して乱暴な親に接触して自分に危険が及ぶくらいなら、あとから「確定的虐待の証拠は見つからなかった」という言い訳を準備しておけば、どうにかなる。幼い生命が危機に瀕しているかもしれないとは感じても、きっと自らの平穏のために、積極的に見逃し続ける。過去に観察したことのある相談所は、そんなところだった。
NHKは、どうして、いまさら児童相談所の対応の拙さを取り上げたのか?
ここに、現在の報道機関が抱える、相談所の場合よりも大きな問題点が浮かび上がってくる。
児童相談所は、ある程度の人口規模の町ならば、どこにでもある行政機関のひとつだ。児童虐待ばかりでなく、大小さまざまな児童相談を受け付けている。
新聞もテレビも、実は毎日の紙面や番組をつくる際に、しばしばネタが枯渇する。しかし、毎日の報道はつくり続けなくてはいけない。
そんなとき、紙面づくりの司令塔であるデスクから現場の記者に「社会面でも、地方版のトップでも、何かないのか?」と連絡が来る。デスクはさらに、「何かないのかと聞かれて、何もないですとは言えないよな、記者さんよ。ネタを探すって言って、いつも外を歩いてんだからな」と続けてくる。
「2、3本しかないですけど」。1本もなくたって、記者ならばそう答えるしかない。
自分の担当する先をまず回る。こんなときは、日頃から追いかけている大切なネタを急づくりするのは危険だ。すぐに記事にできそうな事件や事故、問題の情報集めをし、それに行き当たらなければ、明るい話題でもなんでもその日の夕方までに仕込む。
そんなときに便利な当たり先のひとつが児童相談所だ。子どもに関する問題はいつの時代でも一定程度の関心を集められる。子育てネタなど、明るい話題を拾える可能性も高い。消費生活センターでは、市民生活に照らした経済ネタなどを仕上げやすいのだ。
つまり、記者ならば、日常の取材活動で、児童相談所や消費生活センターなどは「まちだね」枯渇時の駆け込み寺として、しばしば訪れておくべき場所なのだ。
今回のNHKの記者の児童相談所へのアプローチは、虐待事実を受けてのもの。虐待を受けた児童が死亡したからこそ、ようやく、児童相談所を訪れたのだ。この事実こそが、現在の報道機関が抱える大きな問題だ。
記者は、大きな問題が起きたから動くのではない。いつも動いて、主だった行政機関くらいは、見つめているべきなので。
毎日の紙面や番組を埋めるために、発表ものとその裏づけに追われる現状は同情すべきものもある。準備された仕事をこなすばかりで精いっぱいだ。しかし、本来、もっともっと能動的に社会に関わっていくべきはず。
意欲あふれる新聞記者たちよ、いつも「サイズの大きな回覧板」を作っている場合じゃないだろう?
あす、朝一番で児童相談所と消費生活センターを回りなさい。警察署と検察庁はもちろんだ。何もないかもしれないが、何かあるかもしれない。
君たちの働きに、この国の健康がかかっているのだ。
「児童相談所」について、ようやく論じ始めたんだ、というのが実感。もう、何人の命を見捨ててきたんだ?
児童相談所。まず、職員たちの意欲は決して、高いとは言えない場合が多い。
どの行政でも、忙しい職場を敬遠する人たちが集まる傾向。
若い頃から、波風のない公務員生活を志向し平穏な退職を目指している、そういう傾向の強い職場。もう何十年も前から、そう。
たとえ、幼児虐待の事実を認識しても「そうでない可能性」を模索し続け、幼児が死亡するまで問題を先送りし続けてきたのだと思う。
幼い生命が、親にさえも否定され、身体的な苦しみと、救いがたい絶望とを抱きしめながら、消えて行ってしまっても、職員は「よりによって、なんで自分の周りで…」といった程度の認識なのではないか。
問題家庭を訪問して乱暴な親に接触して自分に危険が及ぶくらいなら、あとから「確定的虐待の証拠は見つからなかった」という言い訳を準備しておけば、どうにかなる。幼い生命が危機に瀕しているかもしれないとは感じても、きっと自らの平穏のために、積極的に見逃し続ける。過去に観察したことのある相談所は、そんなところだった。
NHKは、どうして、いまさら児童相談所の対応の拙さを取り上げたのか?
ここに、現在の報道機関が抱える、相談所の場合よりも大きな問題点が浮かび上がってくる。
児童相談所は、ある程度の人口規模の町ならば、どこにでもある行政機関のひとつだ。児童虐待ばかりでなく、大小さまざまな児童相談を受け付けている。
新聞もテレビも、実は毎日の紙面や番組をつくる際に、しばしばネタが枯渇する。しかし、毎日の報道はつくり続けなくてはいけない。
そんなとき、紙面づくりの司令塔であるデスクから現場の記者に「社会面でも、地方版のトップでも、何かないのか?」と連絡が来る。デスクはさらに、「何かないのかと聞かれて、何もないですとは言えないよな、記者さんよ。ネタを探すって言って、いつも外を歩いてんだからな」と続けてくる。
「2、3本しかないですけど」。1本もなくたって、記者ならばそう答えるしかない。
自分の担当する先をまず回る。こんなときは、日頃から追いかけている大切なネタを急づくりするのは危険だ。すぐに記事にできそうな事件や事故、問題の情報集めをし、それに行き当たらなければ、明るい話題でもなんでもその日の夕方までに仕込む。
そんなときに便利な当たり先のひとつが児童相談所だ。子どもに関する問題はいつの時代でも一定程度の関心を集められる。子育てネタなど、明るい話題を拾える可能性も高い。消費生活センターでは、市民生活に照らした経済ネタなどを仕上げやすいのだ。
つまり、記者ならば、日常の取材活動で、児童相談所や消費生活センターなどは「まちだね」枯渇時の駆け込み寺として、しばしば訪れておくべき場所なのだ。
今回のNHKの記者の児童相談所へのアプローチは、虐待事実を受けてのもの。虐待を受けた児童が死亡したからこそ、ようやく、児童相談所を訪れたのだ。この事実こそが、現在の報道機関が抱える大きな問題だ。
記者は、大きな問題が起きたから動くのではない。いつも動いて、主だった行政機関くらいは、見つめているべきなので。
毎日の紙面や番組を埋めるために、発表ものとその裏づけに追われる現状は同情すべきものもある。準備された仕事をこなすばかりで精いっぱいだ。しかし、本来、もっともっと能動的に社会に関わっていくべきはず。
意欲あふれる新聞記者たちよ、いつも「サイズの大きな回覧板」を作っている場合じゃないだろう?
あす、朝一番で児童相談所と消費生活センターを回りなさい。警察署と検察庁はもちろんだ。何もないかもしれないが、何かあるかもしれない。
君たちの働きに、この国の健康がかかっているのだ。
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