5月3日、会津美里町の会津本郷焼・宗像窯に、宗像利浩先生のぐい呑みを求めた。
利浩先生の茶碗で抹茶もいただいた。楽しかった。
◇
しかし、いま思い返すと、店にこれまでにない変化があった。気にかかっていたがずっとそれが何だか具体的に浮かんでこなかった。
子どものころから、頭のキレが悪い。反芻しなくては事を消化しきれない。
「そういえば、亮一先生のご飯茶碗が一番前に並んでいた」店の入り口に、亮一先生のご飯茶碗が並んでいた。
実をいうと、それが気になっていたのだ。
◇
日本人が日常で最も手にする機会が多い器は、多分、ご飯茶碗だろう。
しかし、その一方で、多くの陶芸家は抹茶碗にこそ器の神髄を求める。
◇
だから、ご飯茶碗は弟子にまかせたりしている。が、今回は、陶芸を極めた亮一先生が、ご飯茶碗を作っていた。なんとなく通り過ぎてしまっていたが、やはり一番印象に残っていた。
白い飯が似合う。
あのご飯茶碗には、亮一先生の焼物への情熱がこもっていた。
◇
5日も経ってからだが、ようやく亮一先生のご飯茶碗の意味が分かってきた。
いい連休であった。
利浩先生の茶碗で抹茶もいただいた。楽しかった。
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しかし、いま思い返すと、店にこれまでにない変化があった。気にかかっていたがずっとそれが何だか具体的に浮かんでこなかった。
子どものころから、頭のキレが悪い。反芻しなくては事を消化しきれない。
「そういえば、亮一先生のご飯茶碗が一番前に並んでいた」店の入り口に、亮一先生のご飯茶碗が並んでいた。
実をいうと、それが気になっていたのだ。
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日本人が日常で最も手にする機会が多い器は、多分、ご飯茶碗だろう。
しかし、その一方で、多くの陶芸家は抹茶碗にこそ器の神髄を求める。
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だから、ご飯茶碗は弟子にまかせたりしている。が、今回は、陶芸を極めた亮一先生が、ご飯茶碗を作っていた。なんとなく通り過ぎてしまっていたが、やはり一番印象に残っていた。
白い飯が似合う。
あのご飯茶碗には、亮一先生の焼物への情熱がこもっていた。
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5日も経ってからだが、ようやく亮一先生のご飯茶碗の意味が分かってきた。
いい連休であった。
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