「いっぽ」のつぶやき

健康に福祉にボランティアにと、自分らしい人生を過ごすために、一歩ずつ歩んでいる「いっぽ」のつぶやきです。

ヴァイオリンコンサート

2007-12-16 07:05:28 | 感動した話
昨日は、ヴァイオリンのコンサートに行ってきました。
YMCAの一角にある自立の店「ひまわり」の小さなスペースで行なわれました。

演奏者は安藤正太郎さんという愛知県在住の方なのですが、生まれつき目が見えられません。
11年前、保育園の一室で奏でられたヴァイオリンの音色に感動した方が、2001年に「安藤正太郎のヴァイオリンを楽しむ会」というのを立ち上げて、スクールコンサート開催のサポートや会員の方を対象にミニコンサート&交流会を開いています。
今回は会員向けのコンサートと交流会だったのですが、たまたま、先日、小さな一歩の会の活動に興味を持って、話を聞きにきてくださった方が、その主宰者というご縁で、会員ではなかったのですが、参加させてもらいました。

会場は30名も入ればいっぱいのスペースなのですが、入りきれず、お店の方まであふれていました。
ピアノ伴奏とヴァイオリンの演奏でしたが、こんなに近くでヴァイオリンの独奏を聴いたのは初めてです。
安藤さんは、日本各地はもちろんのこと、アメリカや韓国でも演奏活動をされている方で、その演奏はすばらしく、同じヴァイオリンから奏でられているとは思えないほど、いろんな音色があり、びっくりしました。
太いやわらかい音もあれば、研ぎ澄まされたような細い音もあります。
その音色に包まれて、しあわせなひと時でした。

1時間ほど演奏を聴いた後は、「ひまわり」のケーキとコーヒーをいただきながらの交流会です。
10名ほどのグループの分かれて、そこを安藤さんとピアノ伴奏をされた古閑恵美さんが10分ずつ回って、歓談してくださいました。
いつもしおり作りに来てくれる小学4年生の双子の姉妹が、コンサートの終わりにお二人に花束を贈呈したのですが、その子達に「前に会ったような気がするけど、あなたたちの小学校で演奏したことがあるのかな?」と尋ねられました。
小学校ではないけど、昨年の菊陽町図書館ホールでのコンサートで、花束を贈呈したそうです。
でも、まったく目が見えられないし、そこでお話したわけでもないのに、なぜわかったんだろうと、みんな不思議でした。
「何となく、そんな感じがしたんですよ」と言われましたが、視覚ではない、特殊な感覚があるのでしょうね。
それにしても、すごい記憶力です。

子どもたちからは、「どうやって曲を覚えるんですか?」という質問がでました。
耳からと点字の楽譜だそうです。
点字の楽譜は、特殊な記号なので、ヴァイオリンだけだと1ページに20小節くらい書けるけど、オーケストラの指揮をするときは、全パートを表すので、1小節だけで3ページにもなるそうです。
でも基本は耳から覚えることで、「言葉だって、しゃべるのが先で、その前から読み書きしないでしょ!」とこともなげに言われていました。
演奏も素晴らしいけど、人柄もとても素敵な方で、もっともっとお話したかったのですが、時間がきて次のグループへと移っていかれました。

自立の店「ひまわり」には、以前はたびたび行っていたのですが、ここ数年ご無沙汰していたので、懐かしかったです。
養護学校や障害者の授産施設などで作られた作品を販売されています。
障害者だからということで甘えるのではなく、商品としてもすぐれたものを、ということで作られていますので、どれもすばらしく、手作りのあったかさが伝わってくる作品ばかりです。
さっそくクリスマス用品を2点買ってきました。
喫茶コーナーもあり、美味しいコーヒーやケーキがあります。
昨日は食べられませんでしたが、ここのカレーもおいしいんですよ。
女性センターにも、2号店がありますので、お近くに行かれたときは、ぜひお立ち寄りください。
自立の店「ひまわり」は、障害者とボランティアの方で運営されていますが、今、ボランティアを募集中だそうです。
興味がある方は、一度、お話だけでも聞きにいってみてください。
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寄付金、10億円!!

2007-11-19 06:33:57 | 感動した話
ふるさとにどーんと寄付した女性が新聞に紹介されていました。
神奈川県大磯町在住の横溝さん88歳が米寿の記念に、「教育やスポーツ振興に役立ててほしい」と、生まれ育った南足柄市に10億円を現金で贈ったそうです。
1千万円の束100個(重さは100キロ)が、テーブルの上にピラミッド状に積み上げられていました。
1千万円の束って、1kgもあるんですね。

1999年には地元大磯町に5億円を寄付していて、障害者福祉施設の設立にも関わっているそうです。
戦後、高校教諭をした後、夫と共に調理場設備関係の会社を興して成功したんだそうですが、その方は「40数年前に、米寿の誕生日に10億円を贈ろうと目標を立てて節約してきました。ふるさとに恩返しできたのは人生最大の幸せ。子どもたちの教育のため、命ある限り努力を続けたい」と言われています。
この言葉、どっかの議員さんたちや接待付けの役人に聞かせたいものです。
それに、お金があり余って贅沢三昧のセレブの方たちも、少しは見習ったらどうでしょうねぇ。
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元気な村

2007-09-15 13:23:00 | 感動した話
全国の自治体が、財政難であえいでいるというのに、人口4200人の小さな村が財政改革を徹底的に行い、今ではその浮かせたお金で若者定住策を進め、赤ちゃんが増え続ける村として注目されています。
それは長野県の山村、タレント峰竜太の出身地でもある下條村です。

財政の良さは長野県一。村の純借金は6億7200万円、貯金(財政調整基金)が26億3200万円と、19億6000万円の余裕があるのです。
中小企業の社長だった伊藤村長が当選してまず行なったことは、12月から1月にかけて全職員を11班に分けて、ホームセンターの店頭で販売実習をさせること。予算編成で忙しい時期ですが、民間はもっと忙しい。職員たちは、冬の朝一番に店に立ち、頭の下げ方、商品知識、接客法と、お金を稼ぐことのつらさ、大変さを学んだのです。
職員も59人から35人に減らし、平均年収700万円とすると年間1億6800万円が浮いたことになります。
人数が少なくなり、一人で二役、三役とこなさなくてはいけませんが、少数精鋭で前より接客態度もよくなり、みな喜々として飛び回っているそうです。
また住民にも行政任せの風潮を改めさせ、小規模土木工事は村が生コンやU字溝などの材料だけを渡し、作業は住民が自前でやるようにしてコストを抑えています。
最初は、かなり住民の反発もあったようですが、お金がないのだから、自分たちで頑張らないと、という気持ちになったのでしょう。
全村民にアンケートをとり、村が合併せずに自立することを95%の住民が支持し、「下條村自立宣言」を発表しています。

さらに、村では若者向け住宅を毎年建設し、今では14歳までの若年人口率は17,3%、出生率も2,12と、長野県でトップです。
子育て支援のため、中学生まで医療費を無料にし、7億5000万円かけて図書館を造り、利用率は長野県2位となっています。
小さくてもこれだけ活気に満ちた村があり、人口は少しずつ増えています。
自治体のトップの指導力でこれだけ変わるんです。
他の市町村もぜひ見習って欲しいですね。
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聴き上手?

2007-09-06 07:14:05 | 感動した話
人とのコミュニケーションって、ほんとうに大事ですよね。
私が小さいとき、田んぼの中の一軒家ということもあり、出かけていって遊ぶということはあまりなく、母が家で編み物教室を開いていたので、その生徒さんたちに混じって編み物をしたり、初心者の人に教えたりして過ごしていました。
その他のときも、一人で手芸をしたり、本を読んだりすることが多く、友達と遊ぶことはほとんどありませんでした。
小学校ときも自分から発表したり、人と話すのが一番の苦手で、通知表にはいつも「おとなしすぎる」と書かれていました。
その反動かどうか、最近では、気がつくと結構おしゃべりになったような・・・
でも元々が話すのが苦手だったし、今でも話し上手ではないと思っているので、後で相手の人に不愉快な思いをさせたのではないかと不安になり、落ち込むこともあります。
そんな私にぴったりの記事がありました

人とのコミュニケーションの基礎は「聴く」ということで、あなたは人の話を聴いていますか?という質問です。
そういえば、人の話を聴いているようで、結局は自分のことばかり話しているような・・・
人の価値観、経験、感じ方は、人それぞれに違うため、十人十色でそれぞれ異なる感情を抱くもの。
そもそも人の話を聴いているとき、何に集中して聴いているかというと、当然相手の話のはずなのですが、実は「自分のこと」に集中しているというのです。
つまり、相手が話していることに対して、次に自分は何を言おうか、「自分の答え」を一生懸命探しているのです。
自分が経験したこと、それによって感じたこと、それを一生懸命、脳の引き出しを開けて探しているのです。
でも実際は、相手の経験したことと自分の経験したことは同じではないのに、相手の言葉の中に少しでも似通った「単語」を見つけたら、これ幸いと自分の話にすり替えてしまっているというのです。
まさに自分の話し方は、そうだったかも
人は自分のことを認めてほしい、知ってほしいという願望のほうが、相手を知ろう、知りたいという願望より強いし、自分の経験が相手にとっても価値があるものだと勝手に思い込んでしまうものだそうです。
人の話を聴くということは、相手の見地に立ち、相手の立場から物事を眺め、相手が見ている世界を見ることであり、相手を理解し、相手の気持ちを感じ取ることです。
これからはもっと人の話をきちんと聴くように心がけようと思います。
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私は貝になりたい

2007-08-25 07:45:51 | 感動した話
昨日放送された「終戦記念特別ドラマ・真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎『私は貝になりたい』」(主演:中村獅童)を見ました。

「私は貝になりたい」と言う言葉は聞いたことがあったのですが、その意味はよく知りませんでした。
1958年に故フランキー堺さんが主演で映画化され、有名になったそうです。
その内容は、捕虜の殺害を命じられ、実際は負傷させるだけにとどめた男が終戦後、軍事法廷で死刑判決を受け、「生まれ変わるなら私は貝になりたい」との遺書を残し、処刑台を上がる物語だったそうです。
しかし、それは事実とは異なっていて、原作者に無断でその内容を脚色されたものだったのです。

実際は、「私は貝になりたい」の原案となった手記「狂える戦犯死刑囚」を書いた元陸軍中尉、加藤哲太郎さんは、実は釈放を勝ち取って生きていたのです。
死刑囚として絶望の中で、今度生まれ変わるときは、戦争に行かずにすむように、何にも傷つかなくて済むように、深い深い海の底の貝になりたい、と思ったそうです。
今回は事実に基づき再現された、中村獅童主演でのドラマでした。

戦争と言う非常事態の中では、何が正義なのかわからなくなってしまいます。
ドラマの中で、北京の俘虜収容所で医師をしていた人もBC級戦犯として捕らえられていましたが、医師として俘虜を助けたいと思っても医薬品が届かず、手の施しようがなかったにも関わらず、医療放棄したとして絞首刑になってしまいました。
戦争では、やさしい人間は損をする、という言葉が印象的でした。
またアメリカ軍の医療刑務所では、アメリカ兵により、日本人に対して日常的にリンチが行なわれていました。

加藤さんは、妹さんたち家族の力でマッカーサー元帥に直訴し、なんとか減刑され、10年後には釈放されたのですが、ただ命令にしたがっただけで戦犯として処刑された人も多かったことでしょう。
しかし、加藤さんが生き残ったお陰で、当時のことが明らかになりました。

今は亡くなった私の父も、20歳で戦争に行き、6年後の終戦まで、中国や南方の島を転々としたそうです。
小さい頃、お酒が入ると、世界地図を持ってこい、と言って、この島に行った、この島はこうだったとよく話をしていました。
それは、船で航海しているとき、魚雷が船の真横を通り過ぎるのを見た、とか、食料難でヘビやカエルを食べたとかいう話でした。
また隊の中に芋作りのうまい人がいたので、他の隊のように芋づるまで食べずに済んだ、とか言ってました。
ほんとうはもっと辛いことがあったのでしょうが、小さい私たちにはそんな話はしなかったのでしょう。
その頃は、また始まった、とうんざりしていたのですが、今になって思えば、しっかり話を聞いてあげればよかったな、と思います。

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人生これから!

2007-08-21 07:32:22 | 感動した話
昨日、FLPの認定会に行ったのですが、そこでたまたま講演会があるのがわかり、参加してきました。
講演された方は、若い頃、劇団に入っていたり、落語もやっていたということで、身振り手振りでみんなを笑わせながら、でもとてもためになるお話を聞かせてもらいました。
昔はとても人前で話すような人間ではなく、それを克服するために演劇を始めたようなものだそうです。

子どもの頃から、周りからいろいろ言われると、自分はそうなんだ、と自分自身にハンコを押してしまい、苦手意識が出来てしまいます。
やる前から、自分にはそんなの無理だ、と決め付けていたり、1回失敗してしまうと、もうだめだ、とあきらめたりしていませんか?という問いかけです。
大リーグの松井やイチローを例に出され、あんなすごい選手でも、毎回打てるわけではない。3割打つのはすごいことです。しかも常日頃、練習を繰り返し、何百回と素振りをしているんです。
練習もせず、できないとあきらめるのは、なんともったいないことでしょう。
失敗したからといって落ち込むことはありません。
これも素振りです。必ず成功すると自分に言い聞かせることで、成功へつながるのです。
それに失敗を引きずらないこと。
その日にあった嫌なことを寝床まで持ち込まないことです。
寝るときにはもう、明日はどんなすばらしいことがあるのだろうと、わくわくしながら寝るとよいそうです。

その他にも、いろいろ例をあげながら、ときには役者、ときには落語家になって、わかりやすく、楽しくお話してくださって、2時間があっという間でした。

私は小さい頃から、出来なかったときがっかりしないようにと、最初からできないことを前提にしてきました。
しかし、最近になって、ようやく願いは叶うものだと思えるようになってきました。
長年の夢だったボランティアができるようになり、小さいながらチャリティーショップも開くことができました。
人前でしゃべるなんて、とんでもない、と思っていましたが、今ではフットケアの講師として、皆さんの前で話せるようになりました。
人生、いくつになっても遅すぎるということはありませんよね。
これからどんな風に自分の人生が展開していくのか、楽しみです。
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「新・あつい壁」異例の再延長

2007-07-20 09:26:43 | 感動した話
新・あつい壁が「異例中の異例」で、上映期間を再延長するという新聞記事がありました。
私が観に行ったのは、地元と言うことで近くの文化ホールで自主上映されたものなんですが、映画館としては、熊本ではDenkikanのみで上映されています。
最初、6月23日から2週間の予定で上映されたのですが、当初見込みの2倍のペースで観客が来場したため、7月20日まで延長されていたんですが、さらに8月9日まで延長することを決めたそうです。
当初は、2週間で1000人ほどと見込んでいたのが、1週間で達成し、3週間で3000人を超えています。
客層は中高年が中心だったものが、次第に若年層が増え、週末には家族連れも目立つというのです。

この映画は、製作・上映に協力して欲しいと言うことで、前もって協力券を購入してもらい、それを制作費に当てていたので、最初はその協力券を持っている人たちが多かったけど、当日券の売れ行きも伸びてきているそうです。
映画館の支配人は「興行より社会的な使命として上映した側面が強く、予想をはるかに上回る観客動員。娯楽映画の超大作でも1ヶ月半も上映することはない」と、驚きを隠せないそうです。

映画を観終わった人たちの感想は、
「ハンセン病問題について漠然とは知っているつもりでしたが、当事者の苦しみが伝わり、理解が足りなかったと反省しました」
「考えさせられる映画でした。子どもにも見せたい」

中山節夫監督は、「差別や人権について真剣に考えてもらえている手ごたえを感じる。社会の格差が広がる中で、差別される側に回った経験がある人がふえているのかもしれない」と話していました。

まだ観ていない方は、ぜひご覧下さい。
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余命一ヶ月の花嫁

2007-07-19 10:13:27 | 感動した話
昨年1月に乳房にしこりが見つかり、検査を受けた直後の千恵さんは、イベントで出合った太郎さんと始めてのデートをしました。
彼からつきあって欲しいといわれたとき、検査結果が出る前だったので、即答できませんでした。
そして、その後、乳がんと診断され、そのことを彼に告白したところ、いっしょに頑張ろう!といってくれて、交際が始まりました。
二人でいろんなところに出かけ、楽しい思い出がたくさんできました。
しかし、抗がん剤治療だけではガンを抑えられず、昨年8月に左乳房を切除する手術を受けたのです。
そのときも、彼が励ましてくれました。

手術をしてすっかり元気になった彼女は、猛勉強をしてシステムエンジニアの資格を取り、2月に晴れてSEとして働き始めました。
しかし、その直後から体調が悪くなっていったのですが、勤めてすぐなので休むわけにもいかず、頑張っていたのですが、あまりに辛いので近くの病院で診察を受けたところ、医師は「なぜ今までほっておいたのですか?すぐに主治医のところに行きなさい。」と・・・
3月6日入院。乳がんが転移し、左肺の半分が真っ白の状態でした。
その後の進行が早く、右肺や骨にも転移していきます。
そして、3月30日、家族は余命1ヶ月、もしくはそれより早まるかも・・と告げられました。
母親は中学3年生のときにガンで亡くなっています。
それから男手一つで一人娘を育ててきたお父さんにとって、残酷極まりない宣告でした。
父親は娘に余命1ヶ月とは告げられませんでした。
しかし、千恵さんは自分が末期がんであることを察知し、「ガンと戦う自分の姿を同世代の人たちに見てほしい」とテレビの取材に応じてくれたのです。

お父さんは毎日2時間かけて、病院に通い、痛がる娘の背中をさするのが精一杯です。
太郎さんは、毎晩仕事が終わって病院に駆けつけ、泊り込んでくれました。
お友達も、ちょこちょこ顔を見せて、彼女の相手をしてくれます。
そんな彼女の夢は、ウエディングドレスを着ること。
それを知った友達は、都内のあちこちの結婚式場に電話して、4月28日を押さえてくれました。
しかし、千恵さんにはその日に元気でいられるかどうか確証がありませんでした。
それならば、と友達は、さらに電話を掛け捲り、ついに4月5日、青山の素敵な教会を見つけてくれたのです。

酸素吸入をしながら車椅子で会場へ向かう千恵さんは、とても辛そうで、無事に撮影ができるかどうか不安な状態でした。
でも、ウエディングドレスに身をつつんだとたん、酸素吸入器もはずし、歩いて教会に入り、太郎さんやお父さんと記念撮影をすることができました。

実は、千恵さんには写真撮影だけと言ってあったのですが、友人、親族も集まり、模擬結婚式が企画されていたのです。
おまけに、以前雑誌で見ていた素敵な結婚指輪を、太郎さんが前日、宝石店を駆け回って探してくれていました。
それを見た時、彼女の目からは大粒の涙が溢れ出し、止まりませんでした。
教会の外で、みんなで写真をいっぱい撮って、ほんとうに幸せそうでした。
みんな、このまま奇跡が起こって、ガンがなくなればいいのに・・・と願っていました。

しかし、日ごとに進行するガンを止めることはできず、彼女は痛さにもがき苦しむのですが、それでも、ちょっとでも気分がいいと、明るい笑顔を振りまいてくれます。
いつもみんなに感謝し、感謝と言う言葉以上のものが見つからずに困る、と言っていました。
そして、結婚式からわずか1ヵ月後、24歳と6ヶ月で彼女は天に召されていったのです。

その後、一人暮らしになったお父さんを気遣って、太郎さんはときどき泊まりにいっていますし、お友達も以前のように集まり、バーベキューをしたりしていました。
これも彼女が精一杯生きていたという証しですし、彼女のその生き様は、多くの人に感動を与えてくれたのです。
彼女のブログに「明日があるということは奇跡です」と書かれていました。
生きているって、本当にすばらしいことなんだなぁと改めて気づかせてくれました。
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人工呼吸器をつけたオーナー

2007-07-18 06:39:23 | 感動した話
昨日、テレビで人工呼吸器をつけたフィットネスクラブのオーナーが紹介されていました。
鹿児島県薩摩川内市の迫 里深(さとみ)さん27歳です。
子どもの頃から活発で、中学校、高校とバスケット部に所属し、念願のフィットネスクラブのインストラクターとして働き始めた21歳のとき、バイクに乗っていて、わき見運転の車にはねられました。
当初、意識不明の重体で、一命は取り留めたものの、脳幹部に損傷を受け、まばたき以外、まったく動かない状態になってしまいました。
呼吸もできないので、人工呼吸器ですし、食べることもできませんので、栄養分はお腹に開けた穴からチューブで流し込みます。
回復の見込みもなく、生きていく望みも持てず、死にたい、死にたいともらしていたそうです。

しかし、リハビリ専門の先生に励まされ、必死で努力を続けるうち、顔の表情が出るようになり、車椅子にも乗れるようになりました。
声は出ないのですが、口の動きを見てお母さんが代行し、会話もできるようになりました。

首から下はまったく動かず、普通だったら寝たきりが当たり前なのでしょうが、持ち前の明るさと根性で、フィットネスクラブに自分に出来る仕事をしたいと訴えたのです。
車椅子に乗れるといっても、体はまったく動きませんし、会話もお母さんを通じてしかできません。
そこで会社は、彼女にできるものとして、フィットネスクラブのオーナーという仕事をくれたのです。
そんな彼女の頑張りに、多くの障害者が励まされ、兵庫から講演の依頼がありました。

もちろん、彼女はすぐに行くつもりになったのですが、ドクターストップがかかってしまいました。
そのころ体調が悪く、黄疸が出ていて、出発の一週間前に胆のうの手術をしたばかりだったので、3週間は安静が必要という診断でした。
鹿児島空港から伊丹空港まで行き、それから車と新幹線で乗り継いで、ホテルまでの長旅に耐えなければならなかったからです。
それでも、彼女はどうしても行きたいと反対を押し切って出発しました。

空港では人工呼吸器が外れたり、飛行機では体勢が安定せず、苦しそうな表情です。
新幹線では呼吸器がバッテリー切れを起こしたり、ホテルに着くとエレベーターで気分が悪くなったり、部屋に入ってほっとしたとたん、呼吸器が外れてしまったりと、なんども命の危険にさらされました。

それでも、講演会会場で、恩人のリハビリの先生に会えたり、会場に来られたみなさんから声をかけられ、とても嬉しそうでした。
今の目標は、フィットネスクラブの経営を安定させることだそうです。
毎日が命がけの暮らしで、どうしてそんなに明るくできるのか不思議なくらい、里深さんもお母さんも、とても笑顔が素敵でした。
人にはこんなにすごいエネルギーがあるんだなぁと感心させられます。
普通の生活をしていて、不平不満を言ったりしたら、恥ずかしいですね。

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新・あつい壁

2007-07-16 07:09:56 | 感動した話
昨日は合志市ヴィーブルで「新・あつい壁」が上映されましたので主人と観に行ってきました。
ハンセン病への差別と偏見を取り上げた映画で、地元合志市出身の中山節夫監督の作品です。
最初に、監督の舞台挨拶があったんですが、客席に知ってる人が大勢いたようで、やりにくそうでした。

中山監督は地元に恵楓園というハンセン病の療養所があるので、大学時代から研究されていたそうです。
40年ほど前にも「あつい壁」というのを撮られていて、ハンセン病患者を親に持つ子どもたちが小学校への入学を拒否されたことが題材でした。
その映画が撮影されていたのは高校生の時で、主役がクラスメートの友達だったり、高校の近くの骨董品店のおじさんが出演しているというので、学校でも話題になったんですが、どういうわけか見逃してしまいました

今回の「新・あつい壁」は、駆け出しのフリールポライターが、たまたま取材していたホームレスの男性から、55年前に熊本で起きた殺人事件で、冤罪なのに死刑になった人がいるという話を聞いて、面白そうだと思って取材を始めるというものでした。
若者はハンセン病のことは何も知らず、冤罪ということに興味を持ち、熊本のハンセン病療養所「恵楓園」での取材になりました。
そこで当時のことをいろいろ調べていくうちに、ハンセン病というだけ、患者やその家族が不当な差別や偏見を受けていたことを知ることになります。

恵楓園は我が家から歩いていけるところにあり、広い敷地があるので、小、中学校の歓迎遠足の場所になったり、グランドも2面あり、野球の練習場としてもよく使われています。

そこの自治会の人に詳しい話を聞くことになったのですが、役者のケーシー高峰さんや高橋長英さんに混じって、恵楓園の自治会の方もそのまま出演されていました。

当時のことをよく知る人たちから詳しい事情を聞かされるのですが、聞けば聞くほど、犯人とされ死刑になったその男の人が無実だったと思わずにはいられない話でした。
警察も裁判官も、彼がハンセン病患者(実はそれも疑わしい)ということで、犯人と決め付けていて、当時の裁判に関わった書記官の証言に「ぼろ雑巾のように死に追いやった」という話がでてきます。

そんな不条理なことが戦後になっても行なわれていたというのもショックですが、今も尚、差別、偏見は続いていて、実際、数年前の温泉宿泊拒否事件のあと、恵楓園へは陰湿な中傷や嫌がらせがあっています。
一度、恵楓園に収容された人たちは、二度とそこを出ることを許されず、身内からそういう人が出たら、残された家族も周りから白い目で見られ、村八分になってしまうので、家族と縁を切り、ほとんどの人が偽名で暮らしています。
ハンセン病は感染力が弱く、しかも戦後すぐに特効薬も開発され、完治する病気だったにもかかわらず、数年前まで国が「らい予防法」という間違った法により、隔離政策を続け、世間の差別を助長していたことが原因です。
「らい予防法」は撤廃されましたが、今でも偏見を持つ人は多く、本人だけでなく、家族までも肩身の狭い思いをして暮らしています。
映画のラストシーンでは、ハンセン病の家族の苦しい日々が浮き彫りになり、ズーンと心に重くのしかかってきました

私たちは知らず知らずのうちに、他の人を差別したり、偏見をもってみたりしているのかもしれません。
これはハンセン病に限ったことではなく、いじめやメールでの誹謗中傷など、不当に差別や偏見を受けている人たちの苦しみを知ることにもなります。
自分がそうされたときの苦しみを考えたら、人には出来ないはずです。
他人の痛みがわかるような人たちばかりだったら、世の中、平和になるんでしょうけどね。
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