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『8 1/2』 旅の友・シネマ編 (2) 

2018-06-08 13:19:38 | 旅の友・シネマ編


『8 1/2』 Otto e Mezzo (伊)
1963年制作、1965年公開 配給:東和=ATG モノクロ
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネロ・ロンディ
撮影 ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽 ニーノ・ロータ
主演 グイド … マルチェロ・マストロヤンニ
    クラウディア … クラウディア・カルディナーレ
    ルイザ … アヌーク・エーメ
    カルラ … サンドラ・ミーロ
主題歌 『8 1/2』 ( Otto e Mezzo ) 演奏・サウンド・トラック



映画監督のグイドは新作のクランクインが迫っているが、その構想も準備もできず精神に変調をきたし始めたため
湯冶に出かける。彼を追うように妻のルイザや愛人のカルラが押しかけてきて煩わしいばかりで治療どころではない。
グイドにとって心の拠り所であるクラウディアも儚い夢でしかない。現実を現実として掴みきれない焦燥は少年時代の
郷愁を求めたり自分勝手な妄想することで逃避しようとしたものの映画監督としての現実に戻らざるをえなかった。
そして混乱した自分自身をありのままに受け入れる決意をして、これまでに自分の人生に影響を与えた人たちを
オープンセットに集め、力強い指示を出しながらみんなの輪の中に飛び込んでゆく。



この映画は一人の映画監督を通じて、過去ヘの郷愁、幻想、それに空虚な現実を織り交ぜて魂を失った現代人の
不毛を象徴主義的に映像化、人生の意義を問うフェリーニの自叙伝的作品で、ベルイマン監督の『野いちご』に並ぶ
トーキー芸術映画の頂点を極めた最高傑作です。
冒頭の渋滞した車の中から空に向かって飛び出すシークェンスは主人公グイドの逃避願望が抽象的に映像化、
また、貧しい娼婦のサラギーナにルンバを躍らせるシーンは少年時代の強烈なノスタルジーを込めて描きあげ、
そして妄想の中のハーレムでは抑圧された欲望を心の底で爆発させています。
映画はこれらの断片を現実と平然と同居させながら、自分自身をさらけ出すようにして人間の本音・人生の意味、
そして人間存在の本質を語り掛けています。
ラストシーンではドロドロとした現実の社会の中にあっても人間の真の純真な心を忘れてはならないという決意で
少年時代のグイドの無垢な姿で映画を結んでいます。
フェリーニ自身、「私はこの作品で、一種の混乱の中に自分を失い精神秩序の乱れている映画監督、つまり私自身を
撮りたいと思った。この作品はきわめて切実な告白である」と語っています。

映画『8 1/2』より ラストシーン 【YOUTUBE】より


この作品には意外と多くの台詞がありますが、台詞を一つ一つ理解しながら物語を追おうとするとかえって映画の本質を
見失ってしまいます。やはり、映画の本質は物語ではなく映像表現です。いかにして訴えたいこと(魂の叫び)を、映像で
表現するかに尽きます。ラストシーンは純真な頃への深いノスタルジーそして強烈な魂の叫びそのものでした。
劇中で、プロデューサーが「君の映画は意味の無いエピソードの羅列だ。独りよがりは困る。観客にわかる映画でないと。」
とグイドに語り掛けるシーンがありますが、それに対する無言の回答がこの『8 1/2』に他なりません。

映画『8 1/2』より 『サラギーナのルンバ』 【YOUTUBE】より


主人公のグイド(フェデリコ・フェリーニ監督自身)の少年時代の忘れられない思い出としてこのシークェンスが
強烈なノスタルジーを込めて描かれています。
第二次大戦直後、トーチカで暮らしていた身寄りのない貧しい娼婦のサラギーナは、まだ分別のわきまえもない
少年グイドが初めて接する大人の女性だったのでしょう。
映画でのサラギーナはメタボリックで鬼のような形相をしていますが、きっと厚化粧をしたグラマーな女性で
少年グイドにとってあこがれ的な存在であったのかもしれませんね。

  *****

ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカで口火を切った現実直視型のイタリアン・リアリズムはやがて知的リアリズム
あるいはネオ・ロマンティシズムとしてフェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ピエトロ・ジェルミ、ヴァレリオ・ズルリーニ
たちへと引き継がれていきます。
中でも、ロッセリーニ門下生のフェリーニはイタリアン・リアリズム的描写の真実味を芯に独自の世界を繰り広げました。
冷酷な現実を追求しながらもラストでは未来に希望を…というロマンティシズムとの融合は彼の作品の特徴でもあります。