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特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

Ad便ture

2010-11-12 11:39:47 | Weblog
いきなりの、汚い話で申し訳ないけど・・・
(ま、もともと汚い話の多いブログだけど・・・)
私は、深酒した翌日は、腹を下すことが多い。
“酒を飲んで腹を壊すのは、肝臓が悪い証拠”とも言われるそうだが、その確率が極めて高い。
しかも、それは、いきなりくる。
ほとんどは、翌日の早朝一回で済むのだが、かなり飲んだときは二回~三回と複数回もよおしてしまう。
だから、それに当る日は、二日酔いの頭痛や倦怠感とともに、それなりの緊張感がついてまわるのである。

その日も、深酒をした次の日。
私は、“二日酔い”の身体を抱え、腐乱死体現場を調査するため、とある街に出かけたときのことだった・・・


「早すぎたかな・・・」
私は、依頼者との約束の時刻を前にして現場に到着。
そこは狭い路地の奥にあるアパートで、近くに車を置くスペースはなし。
私は、少し離れたコインPに車を置き、徒歩でアパートにUターン。
いつもの小道具を小脇に抱え、アパートの前に立って依頼者が現れるのを待った。

「ん?・・・アレ?・・・また?・・・」
そうしていたところ、いきなり、下腹部に違和感を感知。
そう・・・朝から腹の具合がよくなかった私は、“大”をもよおしてきたのだった。
その違和感は、時間経過とともに嫌な予感を感じさせる鈍痛に進化。
それは次第に大きくなり、嫌な予感は恐ろしい確信へと変化。
それまでの経験から、腹と尻が制御不能の状態に陥ることは明らかで、そのうち、背筋には悪寒が走りはじめ、心臓は鼓動を大きくしてきた。

「これ・・・ちょっと・・・マズイかも・・・」
依頼者と約束した時間は、迫ってきている。
しかし、ギュルギュルと怪音を発する腹を抱えてしまっては、尻が決壊するのも時間の問題。
究極の選択に迫られた私の頭は、右往左往。
いい年をした大人とは思えないような、幼稚なパニックに陥ってしまった。

「落ち着け!落ち着け!」
私は、車で走ってきた道程や、駐車場から歩いてきた経路の周辺景色を回想。
コンビニ・GS・公園etc・・・近辺にトイレが借りられそうな所がなかったか、慌てる頭の中に探した。
そして、そう遠くないところに一軒のコンビニがあったのを思い出した。

「(依頼者が)そろそろ来るかも・・・」
私の頭には、若干の迷いが・・・
依頼者が来るのを待って、現場のトイレを借りた方が早いかも・・・
しかし、いきなりのトイレ借用とは、あまりに不躾すぎる・・・
しかも、部屋のトイレが普通の状態である保証はどこにもないし・・・
用を足すために、一旦、そこを離れるか・・・
しかし、約束の時刻はもうすぐ・・・
私は、依頼者との約束をやぶる気マズさと、ウ○コ漏洩の危機を天秤にかけた。

「ダメだ!我慢できん!」
長く迷うことはなかった。
“漏らすわけにはいかない!”と短い時間で判断した私は、一旦、現場を離れることに。
ウソも方便、依頼者に道路渋滞を理由に遅れる旨を電話。
そして、頭に浮かべた地図を頼りに、足早にコンビニを目指した。
ただ、策が決まっても腹の状態は“山あり谷あり”、起伏はおさまらず。
“山”のときは静かに徐行、“谷”のときは一気に駆け足。
そうして、目当てのコンビニに向かって、冷や汗をかきながら歩を進めた。

「ヨッシャ!間に合った!」
やっとのことで到達したコンビニは、幸いなことに客用トイレが設置されている店。
更に、“先客”もない模様。
“体裁男”の私は、緊急事態を悟られぬよう店員に声をかけ、内心とは裏腹に平静を装ってトイレに入った。
そして、ズボンのベルトと苦痛の緊張感を急いでゆるめた。
しかし、これで問題が解決したわけではなかった・・・。
不運なことに、そこには、トイレットペーパーがなかったのだ。

「ヴゥ・・・」
大腸は、モノを出そう!出そう!とするばかり。
そして、一度ゆるんでしまった尻の穴は、緊張感を取り戻しきれず・・・
刻一刻と何かが迫ってくる脅威が脂汗となって、額と手のひらに滲んできた。
・・・その緊迫した状況は、とても文字では表せない。
結局、私は、苦渋の決断というか・・・ひとつの決意を得て、用を足したのだった。

さて、その結末とは・・・
1)レジカウンターに行き、店員からトイレットペーパーをもらった。
2)店内でトイレットペーパーを買って持ち込んだ。
3)特掃隊長らしく、手で拭いた。
4)パンツで拭いて、その日はノーパンで過ごした。
答はこのうちの一つなのだが、ここは想像にお任せする。
自分では、なかなか勇気のいる行動だったと思っている。
(気が向いたら、今後のブログで公開するかもしれない。)


これと似たような経験を持つ人はいるだろうか・・・朝の駅のトイレの混みようを見ると、多分、少なからずいるだろう。
ことの大小や事態を問わなければ、日常生活において、ハラハラ・ドキドキすることは結構ある。
そういう意味で、人生は、ある種の冒険みたいなもの。
日々に起こる小さな冒険が積み重なって人生が形成されている。
そして、そういうところから、人生に面白みが生まれるのだろうとも思う。

だから、人は、安定を求めながらも刺激を欲しがる。
日常を維持したうえでの非日常を求める。
そういった意味では、私は“非日常”に恵まれている。
私の“汚死事”がまさにそう・・・
・・・一般の人にとって、私のオシゴトは非日常的な出来事に極まりないだろうから。

非日常的な事柄を相手にする仕事だから、「予定は未定」であることがほとんど。
明日のことはもちろん、今日のことさえ一日が終わってみないとわからない。
また、“ハラハラ”“ドキドキ”と、仕事の中に冒険的な要素がたくさんある。
不適切な用語かもしれないけど、“面白み”もある。
だからこそ、私のような根気のない人間にも務まっているのだろう。

しかし、楽しい冒険ならしたいけど、苦しい冒険はしたくない。
これが、正直なところ。
やはり、背負わされる労苦と苦悩を憂い、その労苦と苦悩から開放されることばかりを望む自分は、常にどこかにいる。
と同時に、「そもそも自分は、幸せに生る資格はあるのか?」「人生を楽しむ権利を持つのか?」と疑問に思う自分もいる。
なぜなら、その資格や権利の根拠となるものが見当たらない・・・
・・・人間社会がつくった法規範や人間関係から派生した道徳倫理には、それを類推させるものがあるだろうけど、それには本質的な根拠が見出せないから。

私は、このところ、この労苦も苦悩も自然・当然のことであると理解するようになっている。
ある種の達観か、一種の開き直りか、それとも悲しい諦めか・・・その正体はわからないけど、素直にそう思う。
ただ、そう考えることによって、気持ちが重くなることはない。暗くなることはない。
逆に、不思議と気持ちは軽くなる。明るくなる。
そして、喜び・嬉しさ・楽しさ等の幸福感に対する感度が増す。
越えなければならない山にたじろぎ、渡らなければならない谷に恐怖することがあるとしても、この労苦と苦悩が、人生を楽しむことを教えてくれているような気がしているのである。


日常は平凡に支配され、特別なことは何も起こらないと思っていないか・・・
しかし、「人生」という名の冒険は、何が起きてもおかしくない。
“死”を“非日常”として、たやすく他人事にしていないか・・・
しかし、自分にも、身近にいる人にも、いつか終わりの日がくる。
十年後か、一年後か、一ヵ月後か、一週間後か、それとも明日か・・・
いつ、どこで、どんな終わり方をするのか知りたいような、知りたくないような・・・興味はあるけど、それは“神のみぞ知る”こと。
予想も想像も、まったくできない。先は見えない。

それでも、“当り前のように思って生きている人生は、本当は当り前じゃない”ということを気づかせてくれる毎日に感謝して、楽しんでいるのである。
(そしてまた、ウ○コの話を人生哲学の話に着地させる独特の術と頭のギャップが我ながら可笑しくて、一人で笑っているのである。)




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