「素直じゃない!」
子供の頃、親によくそう言われた。
「屁理屈を言うな!」
これもまたよく言われた。
私は、親のいうことをすぐにきかない、何かにつけ口ごたえの多い(可愛げのない)子供だったのだ。
ただ、そんな風に言われても、当の私はピンとこず。
親の言う「素直」の意味がいまいちわからなかったのだ。
そんな中で得た結論は“従順=素直”。
つまり、“親に従順=素直”だと解釈した・・・というか、そう解釈しないと自分の中で整理がつかなかった。
しかし、人間の性分なんてそう簡単に変わるものではない。
とりあえず、“素直”の意味を呑み込みはしたけど、実際に親に従順になることはなかった。
結局のところ、“親に従順=素直”という解釈がうまく消化できずにいたのである。
今は、「人に従順=素直」という認識はない。
“素直”とは“自分に従順・正直であること”と理解している。
では、“自分に従順・正直”とはどういうことか・・・
ちょっと考えてみた。
「自分に正直」「自分らしく生きる」というと、何とも聞こえがいい。
素晴らしい考え方・生き方のように感じさせる響きがある。
しかし、そんな表には裏がある。
解釈によっては、ワガママ・自己中心的思考・利己主義などを肯定し助長してしまう。
自律や自制を否定することにもなりかねない。
だから、単に「自分に従順」「自分に正直」なだけでは不充分なのである。
自問自答してみる・・・
Q:自分っていい人間だと思う?
A:いい面もあると思うけど、いい人間だとは思わない。
Q:自分のこと好き?
A:好きなところもあるけど、嫌いなところの方が多い。
Q:自分のことが信じられる?
A:信じたいけど信じきれない。
・・・“自分”なんて、所詮、こんなもの。
「はたして、こんなダメな自分に従順・正直であることが“素晴らしいこと”と言えるだろうか・・・」
と疑問に思うのである。
しかし、悲観してばかりでは能がない。
楽観できる要素もある。
どんなに人間にも生まれもっての悪性があるのと同じように、生まれもっての善性がある。
それを具現化した“良心”というものを持つ。
人は、それら善性や良心に正直に従うこともできると思う。
そして、それが、あるべき“本来の人の素直さ”なのではないかと思う。
そんな考えを持つに至った現在、私は、かつての「親に従順=素直」を「良心に従順=素直」に変化させて消化吸収している。
ただ、残念ながら、“頭の理解”と“心の会得”は別物。
上記のような“本来の素直さ”を実際に持つのは簡単なことではない。
私の場合、そのために必要な自律心・自制心と、忍耐力・自己管理能力がまったく足りていない。
だから、私は、未だ素直な生き方ができないでいる。
素直な人間になれないまま生きている。
その結果として、人生を正しく歩めないでいる。
にもかかわらず、こんなブログを連々と綴っている・・・
その昔、世を騒がせた“口裂女”をパクって「口先男」とでも名乗ったほうがいいくらいかもしれない。
ある平日の昼下がり、私は、とあるマンションに出向いた。
依頼の内容は、部屋にたまったゴミの始末。
依頼者は、このマンションの一部屋に住む男性とその姉である女性。
約束の時刻を少し前に到着すると、それを見計らっていたかのようの依頼者の二人も姿を現した。
「やっちゃいまして・・・」
男性は、そう言い、恥ずかしさをごまかすかのように笑顔を浮かべた。
「驚かれると思いますよ」
女性は、そう言い、憤りを通り越したような呆れ顔を浮かべた。
男性は40代、独身。
いい大学をでて大手企業に勤務。
勤勉で給料も悪くなく20代でこのマンションを購入。
身体も健康、仕事も順調。
「結婚への縁がないことを除いて問題らしい問題はない」と、女性ら家族はそう思っていた。
中がゴミ部屋になっていることは近隣住民や管理会社にもバレバレ。
溜めはじめてからの数年はごまかすことができたものの、増える一方のゴミをいつまでも隠し通せるわけはなく・・・
男性が玄関を出入りするときの様は明らかにおかしく、他の住人が何度かそれを目撃。
不審に思った住人は、管理組合にそのことを相談。
協議の中、管理組合には複数の証言が集まり、男性は注意勧告を受けるハメになった。
しかし、再三にわたる勧告にも、男性は聞く耳を持たず。
「部屋は自己所有だし、まわりに迷惑はかけていない」と、いつまでたっても片付ける気配をみせず。
ただ、いくら自分の部屋とはいえ、中で何をやってもいいというわけではない。
住人各自は管理規約を遵守しなければならない。
業を煮やした管理組合は実家に連絡し、男性が起こしている事態を知らせたのだった。
当初、家族は管理組合の言うことが信じられず。
「細かなことにうるさいマンションだな」と、不快に思ったくらいだった。
しかし、長年の間、男性の部屋に家族が立ち入っていないことも事実。
また、本人に訊いても生返事で真っ向から否定はしなかった。
そこで、老いた両親の代わりに姉である女性が部屋を確認することに。
半信半疑で、はるばる遠方から足を運んできたのだった。
玄関ドアを開けると、いきなり断崖絶壁。
長年に渡って蓄積されたゴミは、厚い層をもって高い壁を形成。
天井にまで達する勢いで、私に行く手に立ちはだかった。
もはや、そこは「入る」というより「登る」といった動きが要求される状況。
それを見た私の中には、不思議に思う気持ちと驚きを通り越した“感心”に近い感情が湧いてきた。
私は、玄関前でしばし呆然。
しかし、感心ばかりしていても仕方がない。
そうはいっても、次に起こすべきアクションが思い浮かばず。
キョロキョロと視線を泳がせて困惑していると、「いつもはこうやってるんです」と、男性はお手本を見せてくれた。
さすがに男性は慣れたもの、ゴミひとつ崩さず器用に中に入り、そして出てきた。
私は、その様を真似てチャレンジ。
しかし、悲しいかな、この部屋に対しては素人。
積み上がったゴミをドアの外に崩しながら、チャレンジしては断念、断念してはチャレンジを繰り返し、なんとか室内にもぐり込んだ。
断崖の次は洞窟。
前後左右、全部ゴミ。
天井は、頭スレスレの位置。
空間が狭すぎて、二足歩行は不可能。
私は、四足歩行で前進しながら限られたスペースを観察。
部屋の奥は、ちょっと油断をすると、一体、自分がどこにいて何をしているのかさえ忘れてしまうようなインパクトのある光景。
私は、妙な好奇心を抱き、冒険心を妙にくすぐられたのだった。
部屋の調査を終えた私は、玄関の外に帰還。
それから、わかりきった部屋の状況を二人に報告し、対処方法を説明。
自分の家のことにも関わらず、男性には選択肢が与えられず。
女性は全権を掌握し、男性が何か口答えしようとすると、「アンタは黙ってお金だけ払えばいいの!」と一蹴。
それでも、「必要なものがたくさんある」と男性はしぶとく抵抗。
しかし、社会通念と管理組合を前に男性は丸腰にされ、女性主導でゴミ撤去の手はずは整えられた。
「この人、ホント、人のいうことをきかないんです」
「昔から素直じゃないんですよね」
女性は、溜息まじりに愚痴をこぼした。
心当たりがあるのだろう、一方の男性は、気マズそうに沈黙。
私の目には、消沈した男性の姿がなんども気の毒に映った。
そして、そんな男性でも何とか助けようとする家族の絆にあたたかいものを感じた。
女性が男性に吹かせた姉貴風には懐かしいニオイがあった。
そして、女性が口にした「素直じゃない」という言葉に、私は、その昔、両親が私に対して言ったときと同じ意味を感じた。
両親は、私が親に従順であることを求めていたのではなく、私の幸を願い、私が正しく生きることを望んでいたのだと思う。
それで、未成熟で分別のない私の良心を推し述べていたのではないかと思う。
「もっと親の言うことをきいていればよかった・・・」
社会に出て、何度そんなことを思っただろう・・・
考えても仕方のないことなのに、今でも思うことがある。
学業や職業をはじめ、後悔していることはたくさんある。
しかし、もう手遅れ、過ぎた時間は返らず・・・ダメな自分に服従して生きてきた結果がこれ(今)なのである。
それでも・・・
「素直になるチャンスは死ぬまである」
そんな風に思って、ちょっとした希望も持っている。
命の幸を思い出すため・・・
生きることの楽しさを感じるため・・・
自分が自分であることの喜びを知るため・・・
今を快く受け入れるため・・・
「もっと、もっと生きたい」と素直に思える自分を現すために。
公開コメント版
特殊清掃プロセンター
子供の頃、親によくそう言われた。
「屁理屈を言うな!」
これもまたよく言われた。
私は、親のいうことをすぐにきかない、何かにつけ口ごたえの多い(可愛げのない)子供だったのだ。
ただ、そんな風に言われても、当の私はピンとこず。
親の言う「素直」の意味がいまいちわからなかったのだ。
そんな中で得た結論は“従順=素直”。
つまり、“親に従順=素直”だと解釈した・・・というか、そう解釈しないと自分の中で整理がつかなかった。
しかし、人間の性分なんてそう簡単に変わるものではない。
とりあえず、“素直”の意味を呑み込みはしたけど、実際に親に従順になることはなかった。
結局のところ、“親に従順=素直”という解釈がうまく消化できずにいたのである。
今は、「人に従順=素直」という認識はない。
“素直”とは“自分に従順・正直であること”と理解している。
では、“自分に従順・正直”とはどういうことか・・・
ちょっと考えてみた。
「自分に正直」「自分らしく生きる」というと、何とも聞こえがいい。
素晴らしい考え方・生き方のように感じさせる響きがある。
しかし、そんな表には裏がある。
解釈によっては、ワガママ・自己中心的思考・利己主義などを肯定し助長してしまう。
自律や自制を否定することにもなりかねない。
だから、単に「自分に従順」「自分に正直」なだけでは不充分なのである。
自問自答してみる・・・
Q:自分っていい人間だと思う?
A:いい面もあると思うけど、いい人間だとは思わない。
Q:自分のこと好き?
A:好きなところもあるけど、嫌いなところの方が多い。
Q:自分のことが信じられる?
A:信じたいけど信じきれない。
・・・“自分”なんて、所詮、こんなもの。
「はたして、こんなダメな自分に従順・正直であることが“素晴らしいこと”と言えるだろうか・・・」
と疑問に思うのである。
しかし、悲観してばかりでは能がない。
楽観できる要素もある。
どんなに人間にも生まれもっての悪性があるのと同じように、生まれもっての善性がある。
それを具現化した“良心”というものを持つ。
人は、それら善性や良心に正直に従うこともできると思う。
そして、それが、あるべき“本来の人の素直さ”なのではないかと思う。
そんな考えを持つに至った現在、私は、かつての「親に従順=素直」を「良心に従順=素直」に変化させて消化吸収している。
ただ、残念ながら、“頭の理解”と“心の会得”は別物。
上記のような“本来の素直さ”を実際に持つのは簡単なことではない。
私の場合、そのために必要な自律心・自制心と、忍耐力・自己管理能力がまったく足りていない。
だから、私は、未だ素直な生き方ができないでいる。
素直な人間になれないまま生きている。
その結果として、人生を正しく歩めないでいる。
にもかかわらず、こんなブログを連々と綴っている・・・
その昔、世を騒がせた“口裂女”をパクって「口先男」とでも名乗ったほうがいいくらいかもしれない。
ある平日の昼下がり、私は、とあるマンションに出向いた。
依頼の内容は、部屋にたまったゴミの始末。
依頼者は、このマンションの一部屋に住む男性とその姉である女性。
約束の時刻を少し前に到着すると、それを見計らっていたかのようの依頼者の二人も姿を現した。
「やっちゃいまして・・・」
男性は、そう言い、恥ずかしさをごまかすかのように笑顔を浮かべた。
「驚かれると思いますよ」
女性は、そう言い、憤りを通り越したような呆れ顔を浮かべた。
男性は40代、独身。
いい大学をでて大手企業に勤務。
勤勉で給料も悪くなく20代でこのマンションを購入。
身体も健康、仕事も順調。
「結婚への縁がないことを除いて問題らしい問題はない」と、女性ら家族はそう思っていた。
中がゴミ部屋になっていることは近隣住民や管理会社にもバレバレ。
溜めはじめてからの数年はごまかすことができたものの、増える一方のゴミをいつまでも隠し通せるわけはなく・・・
男性が玄関を出入りするときの様は明らかにおかしく、他の住人が何度かそれを目撃。
不審に思った住人は、管理組合にそのことを相談。
協議の中、管理組合には複数の証言が集まり、男性は注意勧告を受けるハメになった。
しかし、再三にわたる勧告にも、男性は聞く耳を持たず。
「部屋は自己所有だし、まわりに迷惑はかけていない」と、いつまでたっても片付ける気配をみせず。
ただ、いくら自分の部屋とはいえ、中で何をやってもいいというわけではない。
住人各自は管理規約を遵守しなければならない。
業を煮やした管理組合は実家に連絡し、男性が起こしている事態を知らせたのだった。
当初、家族は管理組合の言うことが信じられず。
「細かなことにうるさいマンションだな」と、不快に思ったくらいだった。
しかし、長年の間、男性の部屋に家族が立ち入っていないことも事実。
また、本人に訊いても生返事で真っ向から否定はしなかった。
そこで、老いた両親の代わりに姉である女性が部屋を確認することに。
半信半疑で、はるばる遠方から足を運んできたのだった。
玄関ドアを開けると、いきなり断崖絶壁。
長年に渡って蓄積されたゴミは、厚い層をもって高い壁を形成。
天井にまで達する勢いで、私に行く手に立ちはだかった。
もはや、そこは「入る」というより「登る」といった動きが要求される状況。
それを見た私の中には、不思議に思う気持ちと驚きを通り越した“感心”に近い感情が湧いてきた。
私は、玄関前でしばし呆然。
しかし、感心ばかりしていても仕方がない。
そうはいっても、次に起こすべきアクションが思い浮かばず。
キョロキョロと視線を泳がせて困惑していると、「いつもはこうやってるんです」と、男性はお手本を見せてくれた。
さすがに男性は慣れたもの、ゴミひとつ崩さず器用に中に入り、そして出てきた。
私は、その様を真似てチャレンジ。
しかし、悲しいかな、この部屋に対しては素人。
積み上がったゴミをドアの外に崩しながら、チャレンジしては断念、断念してはチャレンジを繰り返し、なんとか室内にもぐり込んだ。
断崖の次は洞窟。
前後左右、全部ゴミ。
天井は、頭スレスレの位置。
空間が狭すぎて、二足歩行は不可能。
私は、四足歩行で前進しながら限られたスペースを観察。
部屋の奥は、ちょっと油断をすると、一体、自分がどこにいて何をしているのかさえ忘れてしまうようなインパクトのある光景。
私は、妙な好奇心を抱き、冒険心を妙にくすぐられたのだった。
部屋の調査を終えた私は、玄関の外に帰還。
それから、わかりきった部屋の状況を二人に報告し、対処方法を説明。
自分の家のことにも関わらず、男性には選択肢が与えられず。
女性は全権を掌握し、男性が何か口答えしようとすると、「アンタは黙ってお金だけ払えばいいの!」と一蹴。
それでも、「必要なものがたくさんある」と男性はしぶとく抵抗。
しかし、社会通念と管理組合を前に男性は丸腰にされ、女性主導でゴミ撤去の手はずは整えられた。
「この人、ホント、人のいうことをきかないんです」
「昔から素直じゃないんですよね」
女性は、溜息まじりに愚痴をこぼした。
心当たりがあるのだろう、一方の男性は、気マズそうに沈黙。
私の目には、消沈した男性の姿がなんども気の毒に映った。
そして、そんな男性でも何とか助けようとする家族の絆にあたたかいものを感じた。
女性が男性に吹かせた姉貴風には懐かしいニオイがあった。
そして、女性が口にした「素直じゃない」という言葉に、私は、その昔、両親が私に対して言ったときと同じ意味を感じた。
両親は、私が親に従順であることを求めていたのではなく、私の幸を願い、私が正しく生きることを望んでいたのだと思う。
それで、未成熟で分別のない私の良心を推し述べていたのではないかと思う。
「もっと親の言うことをきいていればよかった・・・」
社会に出て、何度そんなことを思っただろう・・・
考えても仕方のないことなのに、今でも思うことがある。
学業や職業をはじめ、後悔していることはたくさんある。
しかし、もう手遅れ、過ぎた時間は返らず・・・ダメな自分に服従して生きてきた結果がこれ(今)なのである。
それでも・・・
「素直になるチャンスは死ぬまである」
そんな風に思って、ちょっとした希望も持っている。
命の幸を思い出すため・・・
生きることの楽しさを感じるため・・・
自分が自分であることの喜びを知るため・・・
今を快く受け入れるため・・・
「もっと、もっと生きたい」と素直に思える自分を現すために。
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特殊清掃プロセンター