ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

2023小町座本公演二本立企画「きつねものがたり」&「少年万博物語」

2023-09-08 | 小町座
9月2日、3日と無事、終えました。おかげさまで、沢山の感想をいただき、小町座一同、励みになっています。ありがとうございました。
全く違うテイストの二本の短編、一人で複数を演じる小町座キャストは、自分の芝居の内容はもちろん、着替えの段取り等、大変で、本当に本番、いけるの?という状態でしたが、全公演、全力で駆け抜け、おかげさまで好評で、一同ほっとしています。

さて、今回は、詩人の上田假奈代さんからのレビューをまま、掲載します。上田さんは、大阪は西成の釜ヶ崎芸術大学の主宰者であり、堺アーツカウンシルのディレクターであり、多彩な活動をされています。アートや表現を「生きること」「暮らすこと」に結びつけ、創造することを共に楽しみ、共感する…。アクションし行動する詩人です。
そんな上田さんとの初めての出会いは35年前。まだ20代の私の芝居、大阪の阪急ファイブのオレンジルームでしていた頃、見にきてくれたのが始まり。
そして四年前、まさかの再会。それから、小町座の芝居を見にきてくれます。詩人ならではの言葉で書いてくれた、小町座劇へのレビューです。

小町座公演2023二本立企画
『きつねものがたり』&『少年万博物語』



ならまちの夏の陽射しの坂をくだる。
照りかえす光はかつて誰かを照らした。

「きつねものがたり」、「少年万博物語」のふたつの物語は「かつて」を思いこさせる。人の血のなかにある縄文の記憶、土の記憶、水の記憶、太陽の記憶。その時代の日常に漂う猥雑な記憶、凄惨な記憶、報われない記憶、甘酸っぱい記憶、夢のような記憶、しっぽの記憶。

前登志夫さんの短歌 
たましひは尾にこもるかな 草靡く青草原に夕日しづめる

小町さんはこの歌に取り憑かれ、稲荷に住む3姉妹のお芝居をつくった。
鄙びた稲荷。参詣する人もなく貧しい暮らし。感情が高まると隠せない末っ子の尻尾。友達は戦争で恋人を失った老婆。放たれる火。
新美南吉の「てぶくろをかいに」人間の存在について、空白のページで手渡される。
色は、青草で、赤い火で、雪のような白で。駆け抜ける稲穂のような狐色。
その前に。
末娘は「学校に行って、読み書きを覚えなさい」と言われたことを思い出す。
読み書きができないと本を読むことができないから。
いじめられる学校であっても、読み書きを覚えるためには通うしかない。ひきさかれそうな選択肢を前に、思う。
人生は不平等だ。
この芝居の奥深さをじわじわと、坂をのぼりながら感じた。

小野は、尾の、でもあるのではないか。
小野小町は、尾のこまち。
尾に、やどる。鬼かもしれない。
人間を射抜く鬼。

万博という名前を持つ男性がいた。
1970年生まれの彼は、10年程前に癌で亡くなったのだが、癌とわかってからの数年間、いのちを燃やし尽くした。特別なことを成し遂げたわけではない。病気を隠すわけでなく、仕事や日々の暮らしに向き合っていた姿は、芝居のなかの万博のお爺さんの姿に重なった。博もまた、そんな大人になるのだろう。

太陽の塔には、3つの顔がある。
背中のしっぽの位置かもしれない黒い顔。

それは、前登志夫さんも小町さんもわたしたちも、自らの見えない尻尾の縄文の記憶に揺さぶられて坂をのぼっておりる背中の向こうにいる太陽の顔だ。

また逢う日まで

尾崎紀世彦が熱唱するこの歌は別れの歌だというのに、高揚感があり、エネルギーが満ちてくる。いくつもの扉を閉めては開けて、閉めては開けて進んでゆく、そんな前をみつめて進んでゆくような時代だったのだ、と思う。

また逢う日まで!

それは誰に投げかけた言葉だったのだろう。

演じている役者たちは現在の市井の人々で、日々の暮らしのなかでこの言葉を飲み込むことになる。人生のなかにあった、無名の別れを。揺り戻され、越えてゆくしかなかった、数々の出会いと別れ。
もはや、70年の万博とは異なる様相の時代を生きている。
縄文時代の変わり目にも、縄文の人はそう思ったことだろう。
夕陽を沈めた地に、尾にこめたたましひを、尾の記憶を、わたしたちは手繰り寄せることができるか、日々の暮らしのなかに。

舞台は暗転して、平場にもどって、人生はつづく。                  上田假奈代 2023/09/06


きつねものがたり

少年万博物語

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