ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

現代において恋愛は可能か?

2006-12-03 21:51:38 | Weblog
僕がここで問題にしようとする恋愛とは、どのような既成の状況をも視野に入れない恋愛のことである。たとえば、恋愛の対象が結婚しているとか、恋人がいるとかいった理由で、恋愛できないとか、歳が離れ過ぎているから、恋愛できないとか、といった、普通に僕たちの前に立ちふさがる障害を全部取り払っても、恋愛という行為は可能なのだろうか? という問題である。あり得る、とおっしゃる方は多いだろう。だって、現実に、不倫は横行しているし、お金が介在しているのかどうかはわからないが、歳のかなり離れた恋愛もあるし、妄想の世界であっても、出会い系サイトというお金の絡んだバーチャルな世界から生まれる恋愛だってある。だから、可能だ、と言う人たちは意外に多いと思うのである。そうそう、ここではっきりしておかなければならないことがある。以前僕はこのブログに出会い系サイトは妄想の世界であると書いたことがある。何故僕が3万円もの元手を手にしてサイトに登録したのかと言えば、クライアントの中に出会い系サイトにはまっていて、実際にそこでの付き合いが続いている人がいたからなのである。僕はプラグマティストであるから、そんな出会いがある世界は一体どのような形で出会うものかということを確かめるために、家内の承諾を得て3万円という元手を頂いて、サイトに登録したのであった。実際には出会わないという条件で。いくつかの悪徳サイトに出会った。不正請求もあるし、架空請求もある。あんまりひどいから、ブログに悪徳のサイトの名前を出して、もし、サイトに入る方がいらっしゃるなら、少なくともここだけは危ないですよ、と書いた。すると、サイトに僕が入るきっかけになった、当の本人がブログを読んでくださっていて、先生、あんなサイトはダメですよ。あんなところに引っかかるなんて、先生はドジですよねえ、いう批判をいただいた。何だか僕の人生は無駄な努力をすることが多いような気がして、唖然とした気分になったのを覚えている。話をもとにもどそう。僕の言うのは、スタンダールの書いた「恋愛論」であるとか、「赤と黒」のジュリアン・ソレルのような、野心があってもその底には光り輝くような純粋な愛の存在がこの現代に存在するのか、という問いかけなのである。不倫というのは初めに夫なり妻に対する裏切りあり、という事実の上に、成り立っている。要は騙し合いの世界である。初めに裏切りあり、の男女のセクシャルな物語である。歳が明らかに大きく異なる恋愛当事者たちの間にたとえば女性の金銭、これは男性側からでもあり得るが、そういう金銭が絡んでいるとか、また女性にファーザーコンプレックスという一種の精神の病があって成立しているような物語を指すのでもない。僕がいう現代における恋愛が成立するかどうか、という問題は、男女が出遇った、その瞬時になんらの計算もなく、条件が整っているかどうかでもなく、この人でなければならない、という決断を持てるような恋愛感が存在し得るのか、という問題なのである。これは若さがあれば出来るのか、というとそんなことはない。若者どうしは、年齢的に結婚という課題を抱えているから、特に女性の場合は結婚適齢期(最近はかなり高齢になってきたようだが)になると、僕が指摘したようなことがすっぽぬけても、適齢期に出会った人とあっさりと結婚してしまう人たちが意外に多いのである。これは僕が教師をしていた頃の経験からも分かる。でもそうした男女は数年経つともう離婚騒ぎになる。実際に僕が学校に勤めている間に、結婚式に出て、そのカップルが何組も離婚している。これは計算が働いているからである。計算づくの結婚なんて、いろいろな予期せぬことが起こるから、実際には非常に脆いのである。何だかとても淋しい気がする昨今なのである。もっと情熱的に、もっと何のためらいもなく、もっと無垢に、恋愛が出来ないものか? その結果は不倫とか裏切りとは言わないのではないか。そんな卑しい言葉はもはや通用しないのではないか。スタンダールの恋愛論は現代にも通用してしかるべきではないのか? 僕と妻は15歳離れているから、僕が先に死ぬのがあたりまえである。そうであれば、僕は妻に、心がとろけるような恋愛をもう一度してから死になさい、とそう言いたいのである。勿論逆も真なりであるが。ああ、恋愛、それは空虚な夢物語なのか?

〇「推薦図書」「恋は底力」中島らも著。集英社文庫。軽いようでいて、実は深い人間存在を描いている中島らもが逝ったのは最近のことだ。酒を飲み過ぎて階段を踏み外して脳挫傷で逝った。彼らしい死に方と言えば言えなくはないが、50歳でいなくなってほしくなかった。灘中出身であるから頭の出来は並ではない。高校になって、ドラックと酒に溺れて東大一直線とは行かなかったが。

個の個性を壊さないために

2006-12-03 13:43:50 | Weblog
現代人は否応なしに、ある枠組みの中に押し込められる。勿論人間が社会という制度を形成している限り、それは避け難いことなのではある。今日僕が特に問題にしたいのは、学校という制度の中にいる生徒や学生のことである。これは大学生からだいたい中学生まで、と考えていただきたい。以前自傷行為と自殺行為の近似性について書いたことがある。いま僕が問題にしようとしているのは、相違性についてである。そして、そのような状況に置かれた生徒や学生が如何にして苦悩から立ち上がるか、という問題をとりあげようと思う。ご承知のように僕はカウンセラーという仕事をしているから、僕のところにくる特に若い人たちの中には、自傷行為をどうしても止められない人たちがいる。賢い常識ある若者から、僕に相談しながら、カウンセリング料金を踏み倒すアホな若者まで、言う事は一つである。それは、自分の血が流れ出るのを確認することで、この世界に自己の存在していることを確かな事実であると確認するためである、と言うのである。残念ながら、この行為を覚えてしまうと精神科医が、どんな薬を投薬してもなかなかもとに戻らない。精神科医というのは、よほど優れた医師でないと、なかなか患者の症状を詳しく聞いてくれないから、いきおい、投薬だけの行為に頼る。だから、自傷行為というのは精神科では直し切れない。大切なことは自傷行為と、依存的行為とはしばしばその底で結びついている、ということである。依存の形態は様々である。異性に対する依存もあれば、孤独感から逃れるために、携帯電話を離さずに手首を切るという行為に到るまで、ピンキリである。切る場所は手首に限らない。足も腕も、その範疇に入る。包括的に見ると、結局はこの人たちは、自分の存在意義を、自らを傷つけることによって確かめているということで一致している。しかし、この自傷行為が、度を超すと、自傷行為をしつつ自殺行為にまで及ぶこともあり、また自傷行為さえ経験なしに一気に自殺行為に到る場合もある。こうして多くの若者が命を落とすという悲劇的結末を迎えるのである。何故なのか? マスコミはいじめで中学生や高校生が自殺すると、原因をいじめという行為にだけ絞って書き立て、わめきたてる。しかし、以前にも書いたように自殺に至った生徒や学生は最大の被害者であることに違いないが、いじめをする側の生徒や学生も実は被害者でもある。このことに気づかないマスコミ報道は自殺者を増やす宣伝効果しか持ちえないという点で害毒である。自殺行為も自傷行為も、現代社会の行く末に夢が持てないから、起こる行為なのである。純粋に精神だけの壊れではない。いじめがたとえばその要因だとしても、いじめに遇った生徒や学生には、彼らの置かれた地獄のような世界が永遠に続くかに思えてしまうから自らの命を保てないのである。原因はいじめだけではないのである。この世界に対して、どのような解決策も期待出来ないような虚無感が介在するのである。だから失恋だって自殺行為の対象になり得るし、目を社会一般に向けると大人たちだって、3万人を超す(この間は自殺者が3万人を割ったので、景気が回復してきたようだ、というくだらない解説をしている新聞があったが、こういう視点しか持ち得ないから人間は救われないのが分からないらしい)自殺者が出ているのである。学校も会社も、いや社会全体が閉塞しているのである。自傷行為なんかする必要なんてないのである。ましてや自殺なんてもっての他である。学校や社会がまるで、温かみのない冷えきった工場のような存在なのだから、その結果自らの個までが硬直してしまった時、自分の手で硬直した個を再生していく道筋が必要なのである。どんな手を使ってもよい。ともかくも自己が硬直してその場から動けなくなったら、這ってでも逸脱していくことである。投げ捨ててもよい。学校なんか辞めてもよいし、精神的痛手を追うようなら、そんな会社なんて辞めてしまえばよいのである。自分を傷つけたり、自死を選ぶよりは賢明である。辞めたら、自分には何もない、と思ったらダメなのである。現代社会は工場のようなもの、と言った。だからこそ、自己の再生はそれこそ工場のような社会でやればよいのである。必ず道は開けるのである。逸脱こそが、投げ捨ててしまうことが、自己証明であることも人生には起こり得るのだから。みなさん、実存的に生き直そうではありませんか!

〇推薦図書「青年は荒野をめざす」五木寛之著。文春文庫。今日は難しい哲学書なんかやめて、一人の青年ジュンの痛快無類のヨーロッパ冒険旅行でも読んで、心の垢をとってみてください。

メメント・モリ! (死を想え!)

2006-12-03 12:39:49 | Weblog
死の側から生の意味を考えてみることも必要だろう。たぶん、死を簡単に選び取ってしまうのは、反対に死を自己の意思力によって、たぐりよせようとする試みのようにも見える。しかし、よく考えてみると、生の途中で自分から死を選びとるという行為は、生の放棄であって、そこに働く意思力というのも、決定的なものとは言い難いのではないか。何か、そこには死への衝動性のごときものが働いているのではないか、と思われる。生とはそんなふうに捨て去るものではもともとない。生とは寄る辺ない存在ではあるが、死は必ず向こうから唐突にやって来るものなのである。向こうからと言っても世間で言うあの世というものの存在を僕は認めているのではない。あの世などというものは存在しない。だから向こうから、というのは単なる形容語に過ぎない、と考えてもらえればよい。生を想うには、死を想わねば生の大切さや意義が理解できない。だから、僕がメメント・モリ!と言う時、そこには生のエネルギーが溢れていなければならない、と思っている。何故現代人は死を想わなくなってしまったのであろうか? 死を想わずして、生を投げ捨ててしまうような自死を選ぶことが増えているのであろうか? それは様々に解釈できるけれども、僕たちのまわりに死をイメージし得る存在があまりにも少ないのである。死の意味は教えられなければならない。生の頽廃したイメージの過剰が、死を簡単に選び取るという結果を招いているとは考えられないであろうか? 僕はここで、既成宗教というもの、既成宗教を生業としている僧侶という存在の堕落を考えてしまう。それは僕自身の実際の体験からも言えることである。僕は既成宗教のシンボルとも言うべき西本願寺系の学校に永年英語教師として勤めていた。そこには確かに宗教的儀式というものがあったし、宗教を教える時間もあった。が、しかし、それらはすべておざなりであり、宗教というものの抱えるべき死というものの重さを教えていたか、というとそうではない。僧侶教師たちによって教えられる死はせいぜいが葬式仏教という儀式的なものに過ぎなかったし、自分たちの利権、僧侶でなければ学校長にはなれないという何とも、悲しいほどの傲慢さに満足し切っていたのである。自分たちが、そのような葬式という儀式や様式の中に埋没して、権益だけは受けている、という事実にあぐらをかいている存在に過ぎなかったのである。どうして、そのような意識の彼ら僧侶教師たちにメメント・モリ! という意識を教えられるであろうか。どうして、彼らに生の重さが教えられるというのであろうか。僕は残念ながら、23年もその学校に勤めていたが、一人として尊敬できる僧侶教師には出会えなかった。勿論偽善者は数人はいたが、偽善者であるだけ、彼らのウソが言動や書き物の中から透けて見えてしまうのであった。だからこそ僕は無神論を貫こうという決意をした。一応の礼儀として、信じていないものには手を合わせなかったが、それが、傲慢な僧侶たちからすると、不真面目だ、ということになってしまうのである。宗教者とは無神論までを包括できるような受容力を持たねば、とりわけ既成宗教は利権集団になり下がってしまう。彼らはまた世襲制度によってますます堕落してきたように思う。世襲制度は宗教にとっては僕の考えではすぐにでも撤廃すべき制度である。世襲制度がダメなのは政治の世界をみればすぐに答えが出るであろう。が、僧侶の場合は葬式仏教という様式の中で利権を貪っていればよいだけであって、世の中の普通の人々はそのことに気づく機会が少ない。だからこそ批判もないかのごとくに見えているのである。死の意味を教える立場にいる僧侶たちよ、いまこそ、メメント・モリ! と唱えよ。そして宗教の教えを権威の上に立つのではなく、民衆の中に入って教えよ。あなた方も、自殺大国日本を救うべき立場にいるのである。亡くなった人々の葬式で念仏ばかり唱えているのではいけないのではないか。もう一度言おう。メメント・モリ! と。

〇推薦図書「闘う仏教」丸山照雄著。法蔵館刊。この本には仏教の覚醒と再生の道筋がかなりプログレッシブに書かれています。宗教に疑問をお持ちの方はぜひご一読を。

マイケル・J・フォックスは大きな可能性を秘めていたのに

2006-12-03 00:37:44 | Weblog
僕はマイケル・J・フォックスというアメリカの青年俳優が大好きだった。彼の名前を聞くと、誰もが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の3部作のことを思い出すだろう。実際彼はこの映画で大きな成功をおさめたのである。彼の良さは何と言っても、映画を観る人々に明るさと未来への希望を持たせることの出来る数少ない俳優だ、ということである。顔は確かに所謂男前であるし、スピード感もあるが、背が低くて決してアメリカ人受けするタイプの俳優ではなかったが、やはり作品に恵まれたことが彼の成功を早めたことはラッキーだった。アメリカ人もやはり、今日のような暗い時代的背景や退屈感に覆われた空気の中に映画を観る一瞬の間でも、明るい気持ちにさせてくれるマイケルの雰囲気を楽しんだだろうし、おそらくはホッとする想いで過去の50年代のアメリカが最も世界で裕福で、犯罪もそれほど起こらず、家庭を大事にする夫婦像を想像できたのではないだろうか。アメリカの最も良き時代を思い出させる空気を漂わせるのがマイケルの持ち前のキャラクターだ。「摩天楼はバラ色に」という空想的とも言える恋愛劇は、おもしろかった。彼はアメリカ人の女性には背が低過ぎるから、女性の方がかなり背が高いのである。映画の絵としては本当は絶対におかしいのではあるが、マイケルは、そのことを感じさせない魅力があった。彼はあくまで、キュートな男前の役柄を演じ切る。だから、多少画面の中の彼の様子に違和感を覚えても、観客にマイケルが本物のもてる男だと錯覚させてしまう。僕はアーノルド・シュワルツネッガーがアメリカンドリームの象徴的な存在だと前に書いたが、マイケル・J・フォクスも良き時代のアメリカン・ドリームを象徴する人気俳優だ、と思う。彼の人気の秘密はそのあたりにある、と思う。彼が医者の役柄をこなす「ドク・ハリウッド」はハリウッドの金持ちの名医なのだが、ある時田舎を自分の好きな車で走っているとき、車の故障で、その田舎町にとどまらざるを得なくなり、その車は昔の名車をレストアーしたものだから、部品が田舎町までなかなか届かない。その間、なんの拍子か、彼は田舎町の診療所の医者として、短い日々を過ごすという物語なのだが、僕はこの映画を観ていて、あれー、これまでのマイケルの雰囲気とちょっと違うぞーと感じるところがあった。何か彼の演じる役どころとは異なるところで微妙に彼は暗いのであった。大切なネジが抜けてしまったような、例の明るさに翳りがさしたような雰囲気だったのだ。おかしい、と僕は直観した。ずっと後で彼の自伝「ラッキーマン」を読んだ時、マイケルは「ドク・ハリウッド」の撮影中にパーキンソン病の兆候が出ていたらしい。結局マイケルは映画界からはパーキンソン病のために引退を余儀なくされるが、やはりマイケルだって病魔の影響を十分に受けていたのだろう。彼の演技にまでそれが浮き出てしまっていた。彼はいま、パーキンソン病でありながら、いろいろなチャリティで活躍をしているらしい。僕にとっては残念だが、心がなごむ。良きアメリカのアメリカン・ドリームを象徴するようなマイケル・J・フォックスが、アーノルド・シュワルツネッガーと同じようにアメリカ生まれではない、というパラドキシカルな事実は何を物語っているのだろうか。アメリカはそれほど病んでいるのだろうか? マイケルのような役者が、いまのアメリカには何人も必要な時期だ。

〇「推薦図書」「ラッキー・マン」マイケル・J・フォックス著。SOFT BANK Publishing刊。彼のまさに自伝である。マイケルがお好きな方は興味深く読めるし、マイケルの真面目な役者魂に胸打たれることでしょう。