ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

今年はつらいことが多かった

2006-12-16 02:57:37 | Weblog
と言っても、特に何があった、というわけではない。すべては僕の心の中の葛藤である。僕の精神は真夏の8月頃から崩れ出した。きっかけはクライアントの数が少なかった月だったことくらいだろう。何故か自信も確信もなくなった。読書も字ズラを追うだけで、頭には一向に入ってこなかった。カウンセラーとしてやっていけるのか、という基本的な疑問にも直面した。外へも殆ど出なくなった。僕は大の字になって、マンションの真っ白な天井を見上げるばかりであった。それしか出来なかった。すると、自分は過去へ、過去へと引きずり込まれていることに気がついた。自分にとって一番つらかった思い出ばかりが頭の中をよぎった。それでも時折訪れてくださるクライアントの方々がいらっしゃったが、僕はその時は真剣だが、カウンセリングが終わるともうフラフラだった。限界点を超えていた。生きるのが嫌になって、死んでやろうか、といつも考えていた。そうすれば、もうこんな世の中とはお別れだ、と思っていた。そう思いつつ天井を来る日も来る日も眺め続けた。
6年前まで、学校という人の溢れる場所にいたこともあって、一人でクライアントの来訪を待つのがとてもつらかった。時間が刻々と過ぎていき、その中で、学校時代に特に嫌いだった人間を憎んだ。露骨な裏切りをやった英語教師の青年が許せなかった。たぶん、僕はあの頃、犯罪者になるギリギリのところにいたのではないか、と思う。想像の上ではいくつも犯罪を犯してしまっていたように思う。僕は何だか学校を追放された頃のことがことごとく許せなくなったのである。過去のことを忘れるどころか、過去に支配されていたのである。しかし、実際に、あの頃は職場である学校の人間関係も、家庭での別れた女房とも最低の関係だった。人生であんな苦しい想いをしたことがなかった。
僕はいつも教師になる前は、大学の授業料も生活費も自分で稼ぎ出さないといけない状況に置かれていたので、確かに苦しくはあったが、やはり、そんなこととはくらべものにならなかった。そんなことを思い出す毎日が、今年の8月から今日に到る経緯である。人、一人が生きるってこんなにたいそうなものなのか、と自分で驚いてもみた次第である。人間はもっと軽々と生きねばならないはずだ。ドズンと落ち込んだ穴の中で喘ぎながら呼吸して生きているのが人間じゃあない。人生はもっとすいすいと穴があろうと壁が目の前にあろうと乗り越えていかなくてはならない。僕は絶対にタダでは起き上がらない質である。来年はすいすいと生きてやろうと心の底で決意している最中なのである。いまがその時である。僕はがんばる!

〇推薦図書「ポロポロ」田中小実昌著。中公文庫。内容は戦時下の話ですが、この田中小実昌をいう作家はあくまでひょうひょうとした人間でもあり、作風も同じなのです。田中氏は少し前に亡くなりましたが、たぶんひょうひょうとした死ざまであったのではないでしょうか。羨ましいかぎりです。素敵な作家ですよ。

抵抗と妥協

2006-12-16 00:52:06 | 観想
○抵抗と妥協

人間は人生の中で、意識しているかどうかは分からぬが、抵抗と妥協を繰り返しながら、生きている。たとえば、政治的な運動にたずさわった人々はこのことをよく意識しながら、生きている。彼らにとって妥協は政治的力学の中で生じるどん詰まりの地点に立った時に選択する手段である。これは政治的な力学を視野に入れれば別に恥ではない。これが出来る人が本物の政治的手腕を持った人である。しかし、これが出来ない人、あるいは、わざわざ抵抗の空間を創り出して、挫折することも分かっていながら、行なうような行為は、日本の敗戦直前の特攻隊や、人間魚雷である天回の思想を考え出したような軍国主義的愚昧の産物である。

近いところで、このような行為を創作し、その創作の中で自らの命を絶ったのは三島由紀夫という天才作家である。かれは天才であるが故に、自分の裡なるメルヘンチックな<軍事>を構想したのである。その中で、妥協は許されない行為であった。三島の中には楯の会を構想した時点から、妥協はなかったのである。その意味では三島は自らの美意識の中で生き、そして死んだのであって、それは決して政治的行為でも何でもなかったのである。三島は美文の中に埋もれるように、政治的行為に似たものの中に自らの命を埋もれさせたのである。それでは三島の死は犬死にか? いや、僕は決してそうは思わないのである。彼は自らの美意識という思想の中で、永遠に自分を生かす方法を考えたのである。彼が、ボディビルディングで小さな身体を鍛え抜き、剣道と空手の有段者になったのは、三島にとっては自らの美意識を完成させる途中経過であり、ひ弱な美文家であってはならなかったのである。その意味で、三島は小さなカッコつきの政治的世界の完成者である。それはあくまで、<小さな>というカッコつきの言葉はつくけれども、文学者という存在にとっては、なかなか上をいく行動ではあった、と思う。

妥協を許さない行動は、政治の世界では死を意味することが多い。それらは政治的解決の方法論を妥協策として初めから持ってなどいないのである。テロリズムは現実的に政治的な妥協を認めない手段である。テロリズムは特に大きな軍事力を必要としない。いや、大きな軍事力がないからこそ行なわれる手段である。それはアメリカにおける、同時多発テロ事件を思い出せばよく分かることである。大国こそがテロを最も恐れる国である。そこには政治的妥協の余地がないのであるから、自国の軍事の大きさを誇示することによって相手国を妥協の道にいざなうことなど、もともと出来ない相談なのである。さて、三島はみずからの小宇宙の中で、自死を遂げて満足しているだろうが、現代を生きる人間にとっては、何が起こるかは目が醒めてみないと分からないのである。ひどい世の中である。

〇推薦図書「「歴史の終わり」を超えて」浅田 彰と11人の論客との対談集です。内容は90年代を論じ合っているようですが、21世紀もその延長線上にあることがよくわかる討論集です。刺激的な本ですよ。中公文庫刊。

文学ノートぼくはかつてここにいた   長野安晃