この数日はたいへんだった。あるクライアントに紹介した精神科の先生が、どうしたものか、そのクライアントにはまるで信用できなかったらしく、それが、僕に対する不信感にも繋がって、唐突に電話があって、もうお金がないので、カウンセリングには行けません! というかなりきつい調子の声が電話の向こう側から聞こえてきた。男性のクライアントだが、2回カウンセリングを行なっている。おとなしい感じのする人だったのにおかしいなあ、と感じたので、お金の話はウソだろう? それ以外に理由があるね? と聞き返した。すると、僕の紹介した医者のひと言が非常に堪えたらしく、投薬された薬も信用できなくなり、結局、僕からも離れる結論に達したようである。
僕は、そのとき、君が信用出来ない医者を紹介したのは、僕の責任であるから、そのことを謝った上で、次の予定日には、カウンセリング料はいらないから、必ず僕のところに来てくれるように電話の向こうの、興奮した彼に向かって必死で話をしたのである。彼はおとなしくなって、はい、伺います、という返事を残して電話を切った。もともと彼には2年間も通っていた精神科があり、僕の「精神科巡り」を読んで頂いた方にはお分かりだと思うが、僕は精神科の薬のことなら、ほぼ全ての内容と効き目は分かるのである。しかし、彼の症状と彼が2年間も投薬してもらっている薬とはいかにも合わないと感じたので、彼に具体的に君の症状にはたとえばこの薬に変えてもらえるといいね、と言って彼のかかってきた精神科へ相談に行かせた。すると、どうだ、その医者から電話があり、余計なことをするな、というお叱りの電話であった。ヤブで、底意地の悪い医者であることはそのときの電話の話し方ですぐに分かった。結局、その次にやってきたときの、その医者が処方した薬は、僕の提案した薬をことごとくはずした投薬であった。同じ効き目でも製薬会社によって呼び名が異なるが、そういう違いではなかった。それはわざと僕の提案した薬をはずした投薬であった。当然そんな薬が彼に効くはずもないのは分かりきっている。数日後、彼から、また電話があった。彼は僕の紹介した精神科の薬は勿論呑んではいなかったが、以前の底意地の悪い精神科の医者の薬も当然の結果だが、効かないのであった。1週間眠れないと言ってきた。で、彼は僕に、霊能者のところへいくのだと言う。なんという結論を出してきたのか、と思ったが、まあ、自分のことは自分で決められる40前の男でもあったから、彼の結論を聞いてやるしかなかった。それで、僕のところへは来るのか? と聞いたら、もう行かない、と言う。僕も感情をもった人間であるから、一瞬、カッときたが、救いようのない人もいるのである、と思い返した。以前書いた天才少女の例も場合は全く異なるが、思い込んだらもう、救いようのない人間もいるのだなあ、と諦めるしかないときだってあるのだ、と自分に言い聞かせるしかなかった。正直に言うと両者ともに実に嫌な気分にさせられた。自分ではどうしようもないところで勝手に判断されて、結論だけを突きつけるなんていう行為は人間として、やってはならない行為の一つである。当事者同士が十分に話し合っての結論なら勿論僕だって受け入れる。が、しかし、この両者の場合はあまりに人を傷つける行為である。カウンセラーは傷つかないとでも思っているのだろうか? 一度聞いてみたいものである。残念だが、このお二人は、回復どころか、長い苦しみをこれから味わうことになるだろうことは想像に難くない。その意味では心から同情しているのである。しかし、いまの僕にはもう手の出しようがないのであるから、僕の責任範囲ではなくなったのだろう、と思う。
今日のクライアントは3度目の来訪であった。最初の2回は物凄く落ち込んでいたので、精神科とカウンセリングの両方で治療するしかないと直観したので、同じ精神科の先生を紹介した。僕はあんなことがあった後なので、今日、恐々聞いてみたら、たいへんすばらしい先生である、という。ほっとしたと同時に、この人はもう回復期に入っている、とすぐに分かった。話をしていてもはっきりと物が言えるし、過去の精神的な傷の癒しがはじまっている、と確信を持って見てとれた。優しい女性の顔になっていた。僕のカウンセリングは長々と引っ張らない。クライアントが回復期に入ったら、自己治癒が必ず働くので、なるだけ早めに手離すことにしている。それが、京都カウンセリングルームの方針だ。長いこと引っ張って高いカウンセリング料を取り立てるカウンセラーもいるだろうが、僕はそんなことはしない。だから、当然儲からない。でもそれでいいと思っている。この方針は変えない。クライアントの自己治癒力の力が見えてきたら、クライアント自身の力を信じるのである。中には戻ってくるクライアントもいるが、そういうことは殆どない。僕は、たぶん、今後も貧乏なカウンセラーであり続けるのだろう、と思う。
〇推薦図書「不幸になりたがる人たち」春日武彦著。文春文庫刊。いろいろな場合が具体的に紹介されていますが、その中でも、<不幸の先取りについて>,<被害者意識依存症>,<予想もつかない願望や欲望>のところを読んでください。
僕は、そのとき、君が信用出来ない医者を紹介したのは、僕の責任であるから、そのことを謝った上で、次の予定日には、カウンセリング料はいらないから、必ず僕のところに来てくれるように電話の向こうの、興奮した彼に向かって必死で話をしたのである。彼はおとなしくなって、はい、伺います、という返事を残して電話を切った。もともと彼には2年間も通っていた精神科があり、僕の「精神科巡り」を読んで頂いた方にはお分かりだと思うが、僕は精神科の薬のことなら、ほぼ全ての内容と効き目は分かるのである。しかし、彼の症状と彼が2年間も投薬してもらっている薬とはいかにも合わないと感じたので、彼に具体的に君の症状にはたとえばこの薬に変えてもらえるといいね、と言って彼のかかってきた精神科へ相談に行かせた。すると、どうだ、その医者から電話があり、余計なことをするな、というお叱りの電話であった。ヤブで、底意地の悪い医者であることはそのときの電話の話し方ですぐに分かった。結局、その次にやってきたときの、その医者が処方した薬は、僕の提案した薬をことごとくはずした投薬であった。同じ効き目でも製薬会社によって呼び名が異なるが、そういう違いではなかった。それはわざと僕の提案した薬をはずした投薬であった。当然そんな薬が彼に効くはずもないのは分かりきっている。数日後、彼から、また電話があった。彼は僕の紹介した精神科の薬は勿論呑んではいなかったが、以前の底意地の悪い精神科の医者の薬も当然の結果だが、効かないのであった。1週間眠れないと言ってきた。で、彼は僕に、霊能者のところへいくのだと言う。なんという結論を出してきたのか、と思ったが、まあ、自分のことは自分で決められる40前の男でもあったから、彼の結論を聞いてやるしかなかった。それで、僕のところへは来るのか? と聞いたら、もう行かない、と言う。僕も感情をもった人間であるから、一瞬、カッときたが、救いようのない人もいるのである、と思い返した。以前書いた天才少女の例も場合は全く異なるが、思い込んだらもう、救いようのない人間もいるのだなあ、と諦めるしかないときだってあるのだ、と自分に言い聞かせるしかなかった。正直に言うと両者ともに実に嫌な気分にさせられた。自分ではどうしようもないところで勝手に判断されて、結論だけを突きつけるなんていう行為は人間として、やってはならない行為の一つである。当事者同士が十分に話し合っての結論なら勿論僕だって受け入れる。が、しかし、この両者の場合はあまりに人を傷つける行為である。カウンセラーは傷つかないとでも思っているのだろうか? 一度聞いてみたいものである。残念だが、このお二人は、回復どころか、長い苦しみをこれから味わうことになるだろうことは想像に難くない。その意味では心から同情しているのである。しかし、いまの僕にはもう手の出しようがないのであるから、僕の責任範囲ではなくなったのだろう、と思う。
今日のクライアントは3度目の来訪であった。最初の2回は物凄く落ち込んでいたので、精神科とカウンセリングの両方で治療するしかないと直観したので、同じ精神科の先生を紹介した。僕はあんなことがあった後なので、今日、恐々聞いてみたら、たいへんすばらしい先生である、という。ほっとしたと同時に、この人はもう回復期に入っている、とすぐに分かった。話をしていてもはっきりと物が言えるし、過去の精神的な傷の癒しがはじまっている、と確信を持って見てとれた。優しい女性の顔になっていた。僕のカウンセリングは長々と引っ張らない。クライアントが回復期に入ったら、自己治癒が必ず働くので、なるだけ早めに手離すことにしている。それが、京都カウンセリングルームの方針だ。長いこと引っ張って高いカウンセリング料を取り立てるカウンセラーもいるだろうが、僕はそんなことはしない。だから、当然儲からない。でもそれでいいと思っている。この方針は変えない。クライアントの自己治癒力の力が見えてきたら、クライアント自身の力を信じるのである。中には戻ってくるクライアントもいるが、そういうことは殆どない。僕は、たぶん、今後も貧乏なカウンセラーであり続けるのだろう、と思う。
〇推薦図書「不幸になりたがる人たち」春日武彦著。文春文庫刊。いろいろな場合が具体的に紹介されていますが、その中でも、<不幸の先取りについて>,<被害者意識依存症>,<予想もつかない願望や欲望>のところを読んでください。