ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

地獄と天国

2006-12-08 23:36:40 | Weblog
この数日はたいへんだった。あるクライアントに紹介した精神科の先生が、どうしたものか、そのクライアントにはまるで信用できなかったらしく、それが、僕に対する不信感にも繋がって、唐突に電話があって、もうお金がないので、カウンセリングには行けません! というかなりきつい調子の声が電話の向こう側から聞こえてきた。男性のクライアントだが、2回カウンセリングを行なっている。おとなしい感じのする人だったのにおかしいなあ、と感じたので、お金の話はウソだろう? それ以外に理由があるね? と聞き返した。すると、僕の紹介した医者のひと言が非常に堪えたらしく、投薬された薬も信用できなくなり、結局、僕からも離れる結論に達したようである。
僕は、そのとき、君が信用出来ない医者を紹介したのは、僕の責任であるから、そのことを謝った上で、次の予定日には、カウンセリング料はいらないから、必ず僕のところに来てくれるように電話の向こうの、興奮した彼に向かって必死で話をしたのである。彼はおとなしくなって、はい、伺います、という返事を残して電話を切った。もともと彼には2年間も通っていた精神科があり、僕の「精神科巡り」を読んで頂いた方にはお分かりだと思うが、僕は精神科の薬のことなら、ほぼ全ての内容と効き目は分かるのである。しかし、彼の症状と彼が2年間も投薬してもらっている薬とはいかにも合わないと感じたので、彼に具体的に君の症状にはたとえばこの薬に変えてもらえるといいね、と言って彼のかかってきた精神科へ相談に行かせた。すると、どうだ、その医者から電話があり、余計なことをするな、というお叱りの電話であった。ヤブで、底意地の悪い医者であることはそのときの電話の話し方ですぐに分かった。結局、その次にやってきたときの、その医者が処方した薬は、僕の提案した薬をことごとくはずした投薬であった。同じ効き目でも製薬会社によって呼び名が異なるが、そういう違いではなかった。それはわざと僕の提案した薬をはずした投薬であった。当然そんな薬が彼に効くはずもないのは分かりきっている。数日後、彼から、また電話があった。彼は僕の紹介した精神科の薬は勿論呑んではいなかったが、以前の底意地の悪い精神科の医者の薬も当然の結果だが、効かないのであった。1週間眠れないと言ってきた。で、彼は僕に、霊能者のところへいくのだと言う。なんという結論を出してきたのか、と思ったが、まあ、自分のことは自分で決められる40前の男でもあったから、彼の結論を聞いてやるしかなかった。それで、僕のところへは来るのか? と聞いたら、もう行かない、と言う。僕も感情をもった人間であるから、一瞬、カッときたが、救いようのない人もいるのである、と思い返した。以前書いた天才少女の例も場合は全く異なるが、思い込んだらもう、救いようのない人間もいるのだなあ、と諦めるしかないときだってあるのだ、と自分に言い聞かせるしかなかった。正直に言うと両者ともに実に嫌な気分にさせられた。自分ではどうしようもないところで勝手に判断されて、結論だけを突きつけるなんていう行為は人間として、やってはならない行為の一つである。当事者同士が十分に話し合っての結論なら勿論僕だって受け入れる。が、しかし、この両者の場合はあまりに人を傷つける行為である。カウンセラーは傷つかないとでも思っているのだろうか? 一度聞いてみたいものである。残念だが、このお二人は、回復どころか、長い苦しみをこれから味わうことになるだろうことは想像に難くない。その意味では心から同情しているのである。しかし、いまの僕にはもう手の出しようがないのであるから、僕の責任範囲ではなくなったのだろう、と思う。
今日のクライアントは3度目の来訪であった。最初の2回は物凄く落ち込んでいたので、精神科とカウンセリングの両方で治療するしかないと直観したので、同じ精神科の先生を紹介した。僕はあんなことがあった後なので、今日、恐々聞いてみたら、たいへんすばらしい先生である、という。ほっとしたと同時に、この人はもう回復期に入っている、とすぐに分かった。話をしていてもはっきりと物が言えるし、過去の精神的な傷の癒しがはじまっている、と確信を持って見てとれた。優しい女性の顔になっていた。僕のカウンセリングは長々と引っ張らない。クライアントが回復期に入ったら、自己治癒が必ず働くので、なるだけ早めに手離すことにしている。それが、京都カウンセリングルームの方針だ。長いこと引っ張って高いカウンセリング料を取り立てるカウンセラーもいるだろうが、僕はそんなことはしない。だから、当然儲からない。でもそれでいいと思っている。この方針は変えない。クライアントの自己治癒力の力が見えてきたら、クライアント自身の力を信じるのである。中には戻ってくるクライアントもいるが、そういうことは殆どない。僕は、たぶん、今後も貧乏なカウンセラーであり続けるのだろう、と思う。

〇推薦図書「不幸になりたがる人たち」春日武彦著。文春文庫刊。いろいろな場合が具体的に紹介されていますが、その中でも、<不幸の先取りについて>,<被害者意識依存症>,<予想もつかない願望や欲望>のところを読んでください。

三島由紀夫と不条理

2006-12-08 00:49:23 | Weblog
三島由紀夫が逝ったのは1970年、彼の45歳のときであったと記憶している。世はまさに万国博覧会で日本の高度成長期を前にした、浮かれた時代であったと思う。僕は高2になっており、もう亡くなった祖母の手を引き、万博へ行った。そしてもう一度は、初めて同じ高校の一歳年下のガールフレンドと手をつないで、あの喧騒の中を歩いて回っていた。僕も浮かれた時代を歩いていたのであった。
三島はたぶん、そういう世の流れに耐えられなかったのである。美文の名手と言われるような作品を精力的に書きながら、彼の思想は世の中が浮かれるに従ってあらゆる附属物を取り払うように、純粋唯一の右翼思想を研ぎ澄ませていった。第2次大戦で、死に損なった世代の代弁者として、彼は死の美的で魅惑的な側面を自己の美文の中に封じ込めていった。と、同時に彼の行動はいまにして思えば、おかしな、彼一個の個の中に閉ざされた世界を実際に創り出していった。それを象徴するのが、「楯の会」であった。第2次大戦のドイツ将校の軍服を思わせるような姿形になり、自衛隊の市ヶ谷駐屯所の前庭で、軍事訓練を行なうようになった。そして、実際、三島自身も自衛隊の訓練に参加するようにもなっていた。彼はこの時点に来るまで、自分の貧相な身体をボディビルディングでつくりかえ、剣道と空手の有段者になり、肉体的にも武装していった。彼自身は小男だったので、肉体を鍛えることが、かえって自虐的に僕には感じられた。
僕は三島は大嫌いだったが、どういうわけか、彼の作品は好んで読んだ。たぶん、読者としてはかなり良き読者のうちに入る、と思う。浮かれた世の中で僕自身は自分も浮かれることによって、あるいは思い出したように左翼思想によって自己の精神の平衡感覚を保っていたが、三島は、僕とは正反対に、真面目過ぎるほど真面目に、自己の死を想定するが故の、肉体の鍛練に励み、作品を純粋培養的に美文化していったように感じる。しかし、ここで押さえておきたいのは三島の世界観はあくまで、純粋エリートのそれであった、ということである。東大から大蔵省へ入省、そしてそこから離脱して、作家として一人立ちした。おもしろいことに彼の当時の自宅は真っ白な洋風建築であり、庭はロココ風の西欧建築であった。それから、当時のマスコミ報道から知ったことだが、子どもが成人するまで、クリスマスケーキを毎年自宅へ送り届けるように手配もしていたようである。純粋に天皇中心の復権を唱え、日本の美を知的な美文で描きながら、彼は馬鹿にしていた拝金主義の中で、豪邸を、それも最も西欧風な豪邸を建てて住んでいたのである。そういう矛盾の中に三島もいたのである。
1970年のある日、三島は最後の作品である「豊饒の海」を締めくくって、市ヶ谷駐屯所へと楯の会のメンバー3人と供に、乗り込んだのであった。勿論死ぬためである。三島は檄文を、自衛隊の隊員を前庭に強制的に集合させて、テラスの上から、読み上げた。その光景はいまでも忘れない。三島の声はあくまで強かったが、声は通らず、自衛隊員はザワザワとし、隊列などバラバラの状態であり、三島は虚しく、というより初めからの想定だったと思うが、檄文を読み終えた後、占拠した部屋で、古式の割腹自殺を遂げる。介錯した学生の森田の刀は鍛え上げられた三島の首を一度にははねきれず、2度、3度と刀を降り降ろして、三島の首ははねられ絶命した。森田もその場で自死した、と思う。
三島の行為はあの当時の時代背景からみれば、衝撃を受けたのは一部のインテリ連中だけであり、大部分の庶民はただ驚いただけであったと記憶する。三島の死はあくまで不条理であり、その不条理を三島は日本的な割腹死という手段で、表現して見せたのではなかったか。三島が亡くなった45歳という年齢を僕ははるかに超えて生きている。三島は嫌いだったが、確かに僕の裡に三島の作品は生きて存在しているのはどうしてだろう。

〇推薦図書「裸体と衣裳」三島由紀夫著。新潮文庫。天皇概念の復活や、当時の時代に挑戦するような三島の確信と苛立ちが日記というかたちで読めます。あえて、三島の小説でなく、この日記を推薦します。