ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

尾崎 豊というカリスマ

2006-12-10 23:50:33 | Weblog
尾崎 豊は1965年生で、彼の殆どの活躍の時期は1980年代である。それは消費社会が急速に日本に蔓延した、玩具箱をひっくり返したような時代背景である。僕たち教師という職業にはそんな経済効果は関係のない世界として通り過ぎたが、尾崎はまさに、その中で活躍したカリスマ的な歌手だった。僕は残念ながら、教師として30代の頃で、その頃は組合活動の真っ只中にいて彼の活躍を同時並行的には感じとっていない。むしろ知らなかったと言っても過言ではない。僕が彼を知ったのは1992年に彼が亡くなってからである。あるとき尾崎のプロフィールを紹介する番組があって、彼の天才としか名付けようのない歌がそのバックグラウンドに流れ続けていた。僕は、その彼の人を刺すような厳しくも優しい眼差しと、彼の喋り口と、彼の歌に、打たれた。ただ、感動した。その番組がテレビ放映されたのは僕が40歳を超えてからではなかったかと思う。僕はその明くる日に尾崎のCDを買いに走った。そして、彼のしびれるような歌の中に自分を投げ入れたのであった。
僕は尾崎 豊に巡り合ったのはすでに40歳を過ぎていた、と書いたが、自分の中にまだまだ消し去ることの出来ない青年の心が尾崎の歌に共鳴し、感動させたのだと思う。僕は彼の「I LOVE YOU」よりは「15の夜」の方に共感したし、「卒業」に共感した。彼の書く詩に僕は自分の情念を掻きむしられるような共感をおぼえていたように感じる。尾崎の歌には人を感動させるだけではなく、その人の生き方まで変えてしまうような力がある、と40歳にもなって思った。僕はそれほど尾崎に入れ込んでいたようである。40代は尾崎の歌とグレングールドの弾くバッハのピアノ曲、特に「ゴールドベルグ変奏曲」で、僕は十分に組合運動のカッコつきの民主主義に耐えられた。むしろ僕はその頃機嫌のよい活動家であったくらいであった。世の中にこんな男がいたのだ、と思うと、それだけで職場に行く力が出てくるのだった。
尾崎は若死にしたから、彼の世界をむしろ完成させることが出来たのだと言う人たちもいる。中年になった尾崎 豊はたぶん表現する素材を見いだせなかったとも言われている。しかし、僕の見方は少し違う。尾崎は絶対に生き残るべきであった、と思うのである。彼なら、この人間が生きる価値が希薄になった21世紀の只なかで、尾崎はその空気に抗い続けてみせてくれた、と僕は確信している。その意味ではスマップは時代の空気に溶け込んだ才能の持ち主たちであるとすると、尾崎はあくまでアウトサイダーとして時代に逆らってみせていたに違いないのである。じっくりと尾崎の歌の詩を読み、先入観なしに彼の歌を聞かせたら、彼に共鳴する若者はいまだに多いと思う。尾崎の時代はその意味でも終わってはいない。尾崎 豊という、カリスマ的な才能に僕は共感しながら、いま僕は53歳という年齢を生きている。たぶん尾崎の影響から抜け出すことはないであろう。もっと言うなら、尾崎の歌にいつまでも浸っていたい気がするこの頃である。

〇推薦図書「逸脱の論理」高橋和巳著。河出文庫。尾崎 豊とは何の関係もない文芸評論集だが、尾崎が彼の時代から逸脱した存在であるとすると、この本で扱われている表現者も時代から逸脱した存在です。共通点があると無理に言うつもりはありません。この際に、歴史に刻んでおきたい著者の書いた本を推薦したかったのです。

密やかな希求

2006-12-10 00:02:36 | Weblog
僕は高校に入学した1969年に学生運動の渦の中に巻き込まれて、そのまま高校生活を終わってしまった人間なのだが、たぶん、その間に書物と行動から学んだことは、アウトサイダーであり続けることの格好のよさであった。大学時代はこれと言って何もしなかったし、むしろアルバイトに明け暮れる毎日だったから、大学に行かないでも何とか卒業してみせる、という覚悟に、その精神が隠されていたように思う。教師になって、アウトサイダーであることの僕にとっての意味がじわじわと感じられるようになった。何故かと言うと、僕には西本願寺という既成の大宗教の権威性、それに対する労働組合の日本共産党のカッコつきの民主主義という権威性に対して、抗う以外に生きるすべがなかったのである。一個の教師になって生徒に前に立っているとき以外は、僕は常に反抗者であった。僕の支えは思想的にはアルベール・カミュだったし、日常性の中では、僕ほどの生活苦なんか味わったことのある教師など存在しなかったので、反抗者として生き抜く確信があった。

しかし、制度として確立した存在を取り崩すのは容易ではない。それに僕には思想的な味方がいなかったし、日常性を共有出来るような人間もいなかった。みんな育ちがよかったのである。そういう育ちの良さの中からしか教師は生まれ出て来ない学校だったのである。だから、僕がそのような環境に入れたのは奇跡に近い、といまでも感じる。宗教に対しては、無宗教であることを表現し、カッコつきの民主主義に対しては、西部 邁の保守主義を持ち込んでみたりして生きていた、と思う。また、そのことの方が正直な生き方でもあると思っていた。宗教に対しては特に無宗教の僕が手を合わせるという行為は本質的に宗教を馬鹿にしている行為であると思ったし、宗教とはもっと真剣なものであるとも思っていた。しかし、実際はそうはいかなかった。僕の行為は本質を見抜けない権威主義のアホ坊主たちの支配する理事会の批判の対象になったし、組合では共産党員になるように要請をされたが、自分にウソがつけなかったので、拒否し続けた。だから、組合の副委員長時代も僕はどこかで、外されているという感覚を持っていた。破壊して、再構築せよ、というのが僕のテーマであったから、ちゃちなカッコつきの民主主義思想なんかに興味を感じることなど一度もなかった。

僕が教師生活23年目にして、理事会の懲罰委員会にかけられるきっかけは積年の彼らの僕に対する怨念のような気持ちであった、と思う。しかし、公正に闘うことが許されていたならば、確実に僕が勝てた勝負だった、といまでも思っている。僕には、決定的な勝てる証拠があったからである。が、懲罰委員会のメンバーはかつて、理事会側にいて僕たちの団体交渉に立ち会った人間ばかりで構成されており、出るべき結論はその委員会が立ち上げられた瞬間に決まっていた、と思われる。だから、僕に出来ることは、もう僕のいるべき場所はすでにないということを自分に納得させることであり、また経済的に言えば懲戒免職を避けることであった。家庭も崩壊することは予想がついている時期だったので、少しでも子どもたちに退職金を持たせたかったからである。僕の闘いは、敗北して終わった。追放というかたちで。

いま、密かに希求しているのは、破壊して構築するというような思想ではない。もう新左翼が崩壊して永いのである。僕はその幻想を23年間も教師として生きてきただけである。カウンセラーを生業とするかぎりは、クライアントの構築してきた土台を崩すわけにはいかない。これは絶対にやってはいけないのである。それをやると彼らの中には死を選ぶ人さえ出てくる可能性があるからだ。だから、クライアントが育ってきた土台の上の曲がりくねった建物にたとえられるような生き方を、少しずつ修正する精神的な作業をしていこうと決心したのである。僕はこの歳にして、そのことがやっと自分の生きる指標と矛盾しないところまできたように思う。僕のカウンセラーとしての道のりはこれからなのである。

〇推薦図書「人生の答えはいつも私の中にある」(上)(下)アラン・コーエン著。ワニ文庫。自分の人生の目的が見えなくなったとき、そっと開いて、人生の意味や目的について考える材料になるのが、この本です。ぜひどうぞ。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃