ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

生成と破壊について

2006-12-21 21:22:46 | Weblog
僕の裡にある生成という言葉は、非常に魅力的な意味合いを持っている。そこには、新たな価値意識がともなう可能性が開けているからである。生成という言葉はどのような分野においても使用可能である。それが、上記した意味合いにおいて使われるならば。それに対して破壊という言葉は、どうなのか? このブログを読んでくださっている方々の予想にはたぶん反するだろうが、僕の裡なる破壊とは、これもまた魅力ある言葉の一つなのである。破壊とは在るものを壊すことだけではない。勿論レベルの低い言葉の定義をすればそうなるが、僕の言う破壊とは、必ず新たなものの新生の意味が込められている。かつて、僕は破壊から創造へ、というスローガンをよく使ったものである。破壊は新生であり、創造の一変種でもある。

だからあえて、生成と破壊という言葉の区別をすると、生成には事の始まりからの生まれ育ちがあり、破壊には、古い価値を一旦壊してからの創造、言葉を変えれば生成が在る。抽象的な言葉の定義だけで終わるつもりはない。具体的に考えてみても、僕たちの生とは生成と破壊の連続体の上に成り立っている、とは考えられないであろうか。自分の命を生きる、という行為の中には、人生のどこかで、僕たちは生成と破壊という行為を繰り返しながら生の営みを行なっているとは考えられないであろうか。別の角度から見ると、それは生と死との間の平衡感覚でもある。単純に発想すれば、生と死は両方の天秤の反対側に存在するもののようである。だから普通は生と死の平衡感覚と言えば、その中間点を意味するのであるが、僕の言っている平衡感覚とは、そうではない。僕は最初に生成と破壊は、途中経緯の違いはあるが、どちらも同じように、何かの新たな意味が生まれ出ることを言うのだ、と規定した。
したがって生と死との平衡感覚と、僕が言う場合は、あくまで生まれ出る側の価値意識と、一度は壊れつつも、壊れながら新たな価値意識が芽生え始める価値意識との間の平衡感覚である。だから、必ず僕が規定する平衡感覚とは生の側の価値意識と同義語である。そこには死の概念は存在しない。死など唐突に向こうからやってくるものに過ぎない存在であるから、あえて意識などしないに越したことはないのである。僕たちは生を体験するために命を与えられたのである。自殺の誘惑は、魅惑的ではあるが、決して美しいものではない。生成こそが美しいのであり、死こそが破壊され、そこから新たな生が生み出されてこその破壊の価値意識が存在するとも言えるのではないか、と僕は思う。

生きることが苦しくて仕方がないと思われている人にとっては、僕の上記の規定は耐え難いことであろう。また生とはそんな簡単なものではない、という批判もあることだろう。が、しかし、僕だって死への魅惑に何度となく取りつかれた人間であり、現実に危ういところまで死の淵を彷徨った人間である。だからこそ、生きる意味があるのではないか、と思えてきたのである。生成とはフランスのマルタン・デゥガールの小説の世界に存在する概念ではない。それは実に現実的、実際的な価値意識である。生成と破壊とは同じように生の側の言葉である。そのように今日、新たな年の初めに僕は考えたのである。

〇推薦図書「ニーチェ」ジル・ドゥルーズ著。ちくま学芸文庫。このニーチェ論はかなり読みごたえがあります。力というものはつねに内的な差異化を含み、自己同一性をかわして生成している、という概念そのものが難解なのですが、僕は分からないながらも読んでみる勇気が必要な哲学書だと思っています。どうぞご一読を。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

仕事は人生の中でせいぜい3、4番目の目標に!

2006-12-21 03:41:53 | Weblog
と、こんなことを書くと何て無責任なことを言う奴か! と経済学者さんや、会社経営者さん、自営業(僕も小粒ながらも自営業なんですが)を営んでいる方々からすぐにお叱りを受けそうである。
もう12月になった。この頃から、会社勤めの方々、特に出世をなさっていらっしゃる方々は、僕には想像もつかないほどに年賀状をお書きになるようである。そして、受け取る年賀状も並大抵の数ではない。そうして、お正月おとそなんかを呑みながら、ご自分の存在意義を確かめられるようである。僕はこのような情景は、和やかでよい、と思っている。
出世とは言っても誰もがトップまで行き着く訳にはいかないので、やがて定年をむかえる方々も多いことと思う。さて、60歳定年から、人生80歳時代になって(僕は決して80年も生きたくはありません。何度も書いていますが)、これからが人生の意味が問われる訳である。定年の年はたぶん大量の年賀状がまだ届くはずである。しかし、それも数年も経つと、だんだんと減ってくるのが普通だ。仕事、仕事の毎日を送ってこられたお父さんたちは、意外にこれがショックなのである。自分の存在がだんだんと小さくなっていくような気がして心もとなくなってくるのである。
特に仕事第一に考えて生きて来られた方は大抵は老人性のうつ症状に陥る。あるいは、アルツハイマー病になったりもする。これらの原因はもうすでに現役時代に脳が限界点を超えていることを意味するのではないか、と僕は思っている。それが、仕事を追われて(まさに真面目な彼らにとってはこの言葉が適当なくらいだ)、ほっとした途端に、いろいろなところに障害が出てくるのである。
主に、この原因は自己喪失の感覚に近い、と思われる。自分の存在意義がどこにあったのか、ということに確信を失ってしまうことから起こる現象である。それに反して、定年後に長生きをなさる方々は、頭を切り換えるだけの余裕を持っておれれる方々である。たぶん、このような方々は仕事に打ち込んでいらっしゃるときから、何らかの方法で仕事以外に楽しみを見いだしていらっしゃる方々である。仕事一本槍ではないのである。要はとらえ方の問題である。また叱られそうだが、仕事一途な方々の仕事の質は、意外に低いのではないか、と僕は推察している。心に余裕を持っていらっしゃる方々の仕事の質は逆に、高いのではないかと確信しているのである。その意味で、仕事は人生の中で、せいぜい3、4番目くらいの気持ちで毎日を過ごしてこられた方々は定年をむかえても十分に残りの人生を楽しむ余裕があるのである。
あるいは、生涯現役でがんばる、なんて言っている方々は、仕事に遊びの要素が入ってきているので、ボケるようなことはない。仕事と遊びの要素とは本来表と裏の関係、いや、もっと言えば仕事の中にこそ遊びの要素が含まれていてこその、仕事の楽しさなのである。このことは以前に、ロジエ・カイヨワの「遊びと人間」やホイジンガの「ホモルーデンス」で紹介したことと重なると思われる。哲学的にも証明されている問題なのである。
人生は一回コッキリの存在である。たとえ生まれ変わりを信じている人がいたとしても、いま、ここに生きている人生とは一回きりである。みなさん、大切にしようではありませんか。困ったときはカウンセリングに(少しは宣伝もしておきませんと)やってきてください。楽しきかな人生! と言えるのと、人生の最晩年になって、自分の人生とはなんであったか、なんて自問自答しているのとどちらがよろしいか? 勿論、僕は後者の方の人間ですけれど。一応分析は出来るのものですから、時折自己矛盾した偉そうなことを書きます。

〇推薦図書「悪魔のサイクル」大前研一著。新潮文庫。これは非推薦図書です。この人は勇ましいことを書くのですが、ウソばかり書いているような気がします。この人の本を好んで読んでいるような方は間違いなく、将来は老人性うつ病になります。ずっと前に日本の米が不作でアジアやアメリカ米が大量に入ってきました。大前はカリフォルニア米は日本米よりうまい、ということを吹聴してきましたが、実際に食べてみると、これがまたまずいこと! 大量の農薬を使っているので、僕の長男のアトピー性皮膚炎がみるみる出てきましたよ。

やっぱり人生って不公平じゃあないか!

2006-12-21 00:37:24 | Weblog
と叫んでみたい気分なのである。まず親父の話からしようか。彼は女性にとにかくもてる男だった。別にそれだけが人生の価値ではない、などと僕は高みから言うような人間ではない。たとえ、それがどんなことであったも優れたことは認めてしまうのである。その意味では、女性にもてる、という能力もすごく羨ましいのである。たとえば女ぐせの悪い男って、いるだろう。それは自分の男のプライドなんて初めから捨ててかかって、女性に擦り寄って何とかして自分のものにする、というタイプである。僕はこういうのにはあまり惹かれない。というのも僕にだって、そういう気持ちになれば、たぶんできることだからであろう。しかし、親父の場合は違っていた。僕はどうも母親に興味がなかった。それは僕が母親の顔つきにかなり似ていて、その顔つきがとても嫌いだったからである。なんで親父はこの母親と結婚したのか? といつも疑問に思っていたくらいだ。(まだ健在の母よ、許せ! また電話する) 親父は、何故か僕が好きなタイプの女性ばかりにもてていたように思う。そんな親父も最後は、女性にもてる、ということが、母親の逆鱗に触れて、結局自分の命を縮めることになったのは悲劇的ではあったけれども。
親父は、男であるから女性が嫌いであったはずはないのだが、何か人間力と言えばいいのか、異性を引きつける魅力に長けていたような気がする。言葉にすればこれだけなのだが、たぶん、彼はそういう魅力を持って生まれた男だった、と思う。女性に対する甘えかたも自然だった。だから、前に書いたが、大きな借金をつくった時も、母親の実家を祖母に抵当に入れさせたのである! こんなことは考えられないことだ、と思う。常識のある方からすれば、最低の男ね、と思われるかも知れないが、まあ、端的に言うとそれだけのことをやってみせる男だったわけである。
ところで、この僕はどうだ? 彼の血を半分は受け継いでいるはずなのに、一向に女性にもてない。だからといって、どこかが特に醜悪であるというのでもない。僕には女性を引きつけるだけのオーラがないのではないだろうか? いや、さっき言ったように親父が持っていたであろう、人間力に欠けるのであろう。だから、僕はいま、カウンセラーという仕事をしているが、カウンセリングの技量そのものよりも、僕の雰囲気から逃れる方がたまにいらっしゃる。これは困ったことだ。ある天才少女の話をこの場で2度書いたが、彼女なんかは、僕のブログの中の言葉使いが悪い、と言って、離れていってしまった。彼女にはもっと話を深めることがたくさんあったのだ、プロのカウンセラーとしては。しかし、悲しいかな、僕の人間力というものの狭隘さが招いた失敗だろう、と感じている。彼女が僕から去ったことについては、僕も人間として深く傷ついている。何故なのか? という疑問符がいつもついてまわるからである。僕は既婚者であるから、別に、ややっこしい問題をおこそうなんていう気持ちはない。女性にもてない、というのはたとえであって、要するに総合的な人間としての魅力に欠ける、という事実が僕に重くのしかかっているのである。まだ、人間として、自分を磨く時間は残されているのだろうか? それまでは、あきらめないぞ、と言い放ちたいところだが、弱々しく、ガンバロウ! と自分に言い聞かせているばかりなのである。一体僕の人生って、何だったのだろう?

〇推薦図書「ドリアン・グレイの肖像」ワイルド著。新潮文庫刊。美貌の青年ドリアンの悲劇をいまは味わってみたかった、と心底思います。堕落と悪行の末に破滅する、なんていう美青年って、僕にはないものだらけですから。ワイルドという作家の筆致にも感動をおぼえる作品です。