僕の裡にある生成という言葉は、非常に魅力的な意味合いを持っている。そこには、新たな価値意識がともなう可能性が開けているからである。生成という言葉はどのような分野においても使用可能である。それが、上記した意味合いにおいて使われるならば。それに対して破壊という言葉は、どうなのか? このブログを読んでくださっている方々の予想にはたぶん反するだろうが、僕の裡なる破壊とは、これもまた魅力ある言葉の一つなのである。破壊とは在るものを壊すことだけではない。勿論レベルの低い言葉の定義をすればそうなるが、僕の言う破壊とは、必ず新たなものの新生の意味が込められている。かつて、僕は破壊から創造へ、というスローガンをよく使ったものである。破壊は新生であり、創造の一変種でもある。
だからあえて、生成と破壊という言葉の区別をすると、生成には事の始まりからの生まれ育ちがあり、破壊には、古い価値を一旦壊してからの創造、言葉を変えれば生成が在る。抽象的な言葉の定義だけで終わるつもりはない。具体的に考えてみても、僕たちの生とは生成と破壊の連続体の上に成り立っている、とは考えられないであろうか。自分の命を生きる、という行為の中には、人生のどこかで、僕たちは生成と破壊という行為を繰り返しながら生の営みを行なっているとは考えられないであろうか。別の角度から見ると、それは生と死との間の平衡感覚でもある。単純に発想すれば、生と死は両方の天秤の反対側に存在するもののようである。だから普通は生と死の平衡感覚と言えば、その中間点を意味するのであるが、僕の言っている平衡感覚とは、そうではない。僕は最初に生成と破壊は、途中経緯の違いはあるが、どちらも同じように、何かの新たな意味が生まれ出ることを言うのだ、と規定した。
したがって生と死との平衡感覚と、僕が言う場合は、あくまで生まれ出る側の価値意識と、一度は壊れつつも、壊れながら新たな価値意識が芽生え始める価値意識との間の平衡感覚である。だから、必ず僕が規定する平衡感覚とは生の側の価値意識と同義語である。そこには死の概念は存在しない。死など唐突に向こうからやってくるものに過ぎない存在であるから、あえて意識などしないに越したことはないのである。僕たちは生を体験するために命を与えられたのである。自殺の誘惑は、魅惑的ではあるが、決して美しいものではない。生成こそが美しいのであり、死こそが破壊され、そこから新たな生が生み出されてこその破壊の価値意識が存在するとも言えるのではないか、と僕は思う。
生きることが苦しくて仕方がないと思われている人にとっては、僕の上記の規定は耐え難いことであろう。また生とはそんな簡単なものではない、という批判もあることだろう。が、しかし、僕だって死への魅惑に何度となく取りつかれた人間であり、現実に危ういところまで死の淵を彷徨った人間である。だからこそ、生きる意味があるのではないか、と思えてきたのである。生成とはフランスのマルタン・デゥガールの小説の世界に存在する概念ではない。それは実に現実的、実際的な価値意識である。生成と破壊とは同じように生の側の言葉である。そのように今日、新たな年の初めに僕は考えたのである。
〇推薦図書「ニーチェ」ジル・ドゥルーズ著。ちくま学芸文庫。このニーチェ論はかなり読みごたえがあります。力というものはつねに内的な差異化を含み、自己同一性をかわして生成している、という概念そのものが難解なのですが、僕は分からないながらも読んでみる勇気が必要な哲学書だと思っています。どうぞご一読を。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
だからあえて、生成と破壊という言葉の区別をすると、生成には事の始まりからの生まれ育ちがあり、破壊には、古い価値を一旦壊してからの創造、言葉を変えれば生成が在る。抽象的な言葉の定義だけで終わるつもりはない。具体的に考えてみても、僕たちの生とは生成と破壊の連続体の上に成り立っている、とは考えられないであろうか。自分の命を生きる、という行為の中には、人生のどこかで、僕たちは生成と破壊という行為を繰り返しながら生の営みを行なっているとは考えられないであろうか。別の角度から見ると、それは生と死との間の平衡感覚でもある。単純に発想すれば、生と死は両方の天秤の反対側に存在するもののようである。だから普通は生と死の平衡感覚と言えば、その中間点を意味するのであるが、僕の言っている平衡感覚とは、そうではない。僕は最初に生成と破壊は、途中経緯の違いはあるが、どちらも同じように、何かの新たな意味が生まれ出ることを言うのだ、と規定した。
したがって生と死との平衡感覚と、僕が言う場合は、あくまで生まれ出る側の価値意識と、一度は壊れつつも、壊れながら新たな価値意識が芽生え始める価値意識との間の平衡感覚である。だから、必ず僕が規定する平衡感覚とは生の側の価値意識と同義語である。そこには死の概念は存在しない。死など唐突に向こうからやってくるものに過ぎない存在であるから、あえて意識などしないに越したことはないのである。僕たちは生を体験するために命を与えられたのである。自殺の誘惑は、魅惑的ではあるが、決して美しいものではない。生成こそが美しいのであり、死こそが破壊され、そこから新たな生が生み出されてこその破壊の価値意識が存在するとも言えるのではないか、と僕は思う。
生きることが苦しくて仕方がないと思われている人にとっては、僕の上記の規定は耐え難いことであろう。また生とはそんな簡単なものではない、という批判もあることだろう。が、しかし、僕だって死への魅惑に何度となく取りつかれた人間であり、現実に危ういところまで死の淵を彷徨った人間である。だからこそ、生きる意味があるのではないか、と思えてきたのである。生成とはフランスのマルタン・デゥガールの小説の世界に存在する概念ではない。それは実に現実的、実際的な価値意識である。生成と破壊とは同じように生の側の言葉である。そのように今日、新たな年の初めに僕は考えたのである。
〇推薦図書「ニーチェ」ジル・ドゥルーズ著。ちくま学芸文庫。このニーチェ論はかなり読みごたえがあります。力というものはつねに内的な差異化を含み、自己同一性をかわして生成している、という概念そのものが難解なのですが、僕は分からないながらも読んでみる勇気が必要な哲学書だと思っています。どうぞご一読を。
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長野安晃