ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

世間は忙しいというのに、読書する女というフランス映画をまた観たくなった

2006-12-31 23:58:37 | Weblog
読書する女という映画は人生に倦み疲れた人間のもとに言って、その人間の気に入った本を読んでやり、少しの報酬を受け取るというプロットだったと思う。原作も同じようなものである。
日本人は年末にもなると帰省がどうだ、とか、正月行事がどうだとかいったことが一大イベントになるようである。生き生きと仕事をしている人もいれば、仕事に倦み疲れた人々もいるだろう。どちらにせよ、人間には何かの区切りが必要なのである。それが年中繰り返してやっている行事という存在である。これは何も年末行事には限らない。
いったいなんだというのか、この日常生活という存在は? 毎日が止めどなく繰り返されるという日常に耐えられる神経の持ち主は羨ましい限りである。僕はこの6年間というものカウンセラーになるために勉強をし、予備校で教え、ああ、その前に永年勤めた学校を管理職との折り合いが悪いために辞めてしまい、離婚し、子どもと別れ、財産の殆どを調停や裁判もせずに(それらをやれば僕の今の生活はもっと楽であったはずだ)、財産の全てを二人の息子のために前妻に渡し、家を出た。あたふたとした6年間だったが、いっときも日常性を生き抜く、という強い意思があった訳ではない。むしろ、胸の中に溜まった重い澱のようなものに突き動かされるようにして息をし、飯を食らい、こうやって何とか生活とも言えぬ生活をし、ブログを書きながら、日常をやり過ごしてきたに過ぎないのが、現実である。
一年の最後に言う言葉ではないのかも知れないが、これからどうやって生きていったらよいのか、自分でもよく分からないのが本音である。僕は他者のために読書してあげられるほどの力がまだ体内に残っているのかさえ分からない。たぶん、はっきりと言えるのは自分のために本を読めることだけは諒解している。ただそれだけなのである。果たして来年も生きていけるだろうか? 大きな疑問である。人間は生を授かったその瞬間から死に向かって生きているのである、という言葉をよく聞かされたものだ。が、この言葉もよく考えてみれば、元気のよい言葉で、人生を生ききろう、という宣告のように僕には聞こえてしまう。いまは、もうこんな元気もないのが自分の置かれた位置である。
精神を病んでしまえばよいのだが、僕の場合は、生に対して懐疑的なのである。だからこそ、自分の限られた生の中で出会う人間の殆どを信じようとする。しかし、現実には、それほど多くの人々が信じ得る対象ではないことが分かってくる。失望の方が大きくなる。それが人生と言い放ってしまえばいいのかも知れないが、なかなかそうは簡単には割り切れないのが、現状なのである。
いったい、僕は来年も生ききれるのか? それが疑問だ。年老いたハムレットでもあるまいに、そんなことを考えている大晦日なのである。

〇推薦図書「日本のみなさんさようなら」リリー・フランキー著。文春文庫PLUS。僕みたいな心境に陥った人は数少ないのでしょうが、もし、よく似た症状が出てきた人は、年末のバラエティー番組や、野蛮な格闘技をテレビにかじりついて観ているよりは、リリー・フランキーの随想を読みましょう。ちょっと心がほぐれますよ。

僕は他者を許せる人間になるんだー

2006-12-31 23:07:14 | Weblog
と書いたが、正直に言うと憎悪を感じている人間が数人、僕の裡に棲んでいる。それが僕という人間の現状なのである。法律がなかったら、自分が何をしでかしているか少し怖いこともある。実際、夢の中の世界は何でもありだから、僕は時折嫌な寝汗をかいて目を醒ますことがある。

他者を許せる人間とは、本質的に自由になれる人間のことでもあろう。僕は、そんな自由な心境の域に達したいと心底思っている。学校時代のどうしても許せない同僚の顔、管理職の醜い顔、金の切れ目が縁の切れ目だと言って、金のあるうちに自動車免許をとり、家を売った金と多分かなりの額の預貯金を殆ど独り占めにし、子どもまで僕から取り上げたかつての妻。離婚に絡んで、永年付き合ってきた僕の側の親戚からの縁切り。離婚の最終盤における自分が仕出かした暴力の事実。自分の醜さ。子どもに対して父親として最低の態度しかとれなかった情けない自分の姿。そういった諸々の人物と事実の集積が、僕を時折押しつぶしそうになる。そして、僕はそういう力には耐えきれないのである。

しかし、僕はそうであった自分に絡みついた垢をひとつひとつ丁寧に削ぎ落としていく精神的作業をいま、やっている最中なのである。人を憎悪したままのカウンセラーなんて、存在理由がないではないか。僕にとって死はまさに近いのである。たぶんそうだ。医者に宣告されたわけではないが、自分が永く生きる人間だとは到底思えない。残された時間はそれほど永くはない、と僕は思っている。だから、いま外からは見えないかも知れないが、僕は必死なのである。精神の錆びて赤茶けた部分を丁寧に必死に削ぎ落としている毎日である。実存主義者として、僕は、嫌な人間では終わりたくはない。それが実存的な存在としての僕自身の意地でもある。もし、人間に生きた証があるとするなら、僕の場合は憎悪している他者をすべて許すこと、である。いま、僕はそんな毎日を生き抜いているのである。少し無理をして表現すれば、こんなことになるだろうか。

〇推薦図書「スヌーピーたちのやさしい関係」チャールズ・M・シュルツ著。谷川俊太郎訳。講談社+α文庫。僕は自分で自分の存在に手を焼いた時、時折スヌーピーを読みます。たくさん、僕は読んでしまいましたが、この本は特に読みやすくて、ためになります。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

頽廃した紅白歌合戦

2006-12-31 22:27:16 | Weblog
いま真っ最中だが、観ていて悲しくなった。何を基準に選ばれた歌手たちなのか、全くその選定基準が分からないので、観ている方が戸惑ってしまう。別に昔を懐かしんでいるだけではないが、1970代の始めくらいまでは、レコード大賞の出演者がそのまま、その年に活躍した歌手として、出演するという資格が確かに存在した、と思う。それがいまはどうだろう? 殆どテレビでは一年に一度しか観ないような歌手まで登場するではないか。団塊の世代以上のお年寄りたちのことを気にしているようだが、それにしても中身がひど過ぎる。紅白歌合戦とは、一年を通じて活躍した歌手たちを登場させるべき番組だったはずである。観ていてほんとうにわびしくなる。年の瀬にこんな番組作りをされたら、背筋に寒いものが走るし、来年に向けて、ようし、がんばろう、という気にもならないではないか。紅白歌合戦のプロデューサーが、いかに誤った番組つくりをしているかにもっとしっかりと気づいてもらいたいものだ。
失敗の原因は、もう不可能なのに、誰もが満足できる番組作りをしようと躍起になって無理をしているからだ。もし、いま、レコード大賞をとった歌手やグループで紅白歌合戦を作ってしまえば、団塊の世代以上のお年寄りには全く分からない番組になってしまうと思い込んでいるのであろう。しかし、年寄りを馬鹿にしてはいけない。年寄りだって、新しく誕生した芸術の質に敏感に対応できるのである。それが理解出来ないのは紅白歌合戦を作っている側だけである。もし、紅白歌合戦を作っている側が、もっと懐かしい時代を再現したいのなら、裏紅白歌合戦を作ればいいのである。そこには、懐かしの歌手、歌姫がたくさん出場するから、これはこれでもりあがるだろう。そして、あくまで、表紅白歌合戦は、今年最も活躍し、売れた歌手やグループに受け渡すのである。
いまの紅白歌合戦の作り手には芸能文化の移り変わりというものの本質がまるで分かっていない。だからこそ、いま紅白をご覧になっている方々の多くは、シラケムードで昔の習慣通りにテレビをつけて、「行く年、来る年」が始まるのを待っている方が多いだろうし、紅白歌合戦を観てから、初詣に出かける方々もたくさんいらっしゃるのである。要は、芸能文化というものの伝播をいうことに無頓着な輩が、司会者だけを若手にして、売れもしていない歌手や、アホほど派手な衣裳を凝らしてうまくもない歌を歌わせているのである。紅白歌合戦のプロデューサーたちよ、来年をもっと明るくしてほしい。僕みたいに暗い年末を迎えている人間たちにとって、別に格闘技を見たいわけでもなく、やはり、むかし、紅白歌合戦を観たように、楽しみにしてこれを待っているのである。若い人たちの音楽が分からない、と初めから決めつけないでほしい。お年寄りにはそれならもっと親切に懐かしの紅白歌合戦を作ってやってほしい。それで、もっと楽しい信念が迎えられるはずである。こんなことを続けていると、ますますNHKの受信料をとれなくなってしまうのは確実なのである。なんとかしろ!

〇今日は推薦図書はありません。すみません。

何故、この一年間、僕は憂鬱だったのだろうか?

2006-12-31 21:09:56 | Weblog
今年のはじめから、この傾向は既に出ていた。それは過食という形で。また変にマシンを使って体力をつけていたから、余計に食べるようになった。もっと正確に言うと過食は2年前くらいから始まっていた、と思う。今年は旅にはどこへも出かけなかったが、2年くらい前の旅の合間に撮った写真を見ると、ブクブクと太ってきているのが分かる。過食という摂食障害には、必ずその裏側で、とんでもない心のドラマが繰り広げられている。簡単に言うと、ストレスだが、ストレスと言って片づけてしまうには、当事者にとってはとても問題を安直に片づけられたという気がして嫌な気分になる。
僕の裡なる心のドラマは、いまの仕事に対する大きな不安感である。それまで、何が何だか分からないままに教師という一種の安定職を辞めざるを得ないことになってから、予備校で少ない賃金で働きながら、これと言って理由のないカウンセラーの養成所に通っていた自分の結果が、カウンセラーとしての独立起業であった。そのことが自分の頭の中でもう一つ諒解されないまま、見切り発車という形でクライアントを受け入れてしまったので、僕にはじっくりと考える時間がなかった。なにをもって、自分がカウンセラーという職業を今後残された短い生涯の中で、やり切らなければならないのか、という核心に触れるものがまだしっかりとつかめていないままに出発してしまっていたからであろうか。
僕はいつも不安であった。この仕事が軌道に乗るのだろうか? さて軌道に乗ったとしても、一体、自分がやり切れる仕事であり得るのかがまだ諒解されぬままに、今日までやってきたということなのかも知れない。一つ救いになるのはカウンセラーとしては、まず自分に出来ることが理解出来てきたこと。出来ないことも分かってきたこと。このことはプロとしてこれからこの仕事をやっていくには大事なことだと思うので、大きな収穫であると感じられる。
しかし、この数年は、僕にとって、辞めるべくして辞めた教師という職業だったが、今にして思えば大きな未練があったと思う。もう西本願寺系のあの東山の女子学園にはうんざりとしているが、ただ、僕は人間がたくさんいるところが好きなのであった。そのエネルギーに満ち溢れた雰囲気が好きだった。教師にはすでにうんざりとしていたので、全く未練もくそもないが、それどころか思い出すのもケッタクソの悪い教師たちの顔が浮かぶ度に不愉快になるが、生徒たちの若々しい生命力には感動させられる側の人間であったので、そのことに多分に未練を持っていたような気がする。もう戻れない場としての学校空間に充満する若々しいエネルギーの湧き出るところとしての職場を思い出しては、気を重くさせていたのだと思う。
いまは、職業柄濃密な話を原則としてカウンセラーとクライアントとして、対面して二人だけの精神的作業を行なう仕事である。勿論仕事としてはやりがいのあるありがたい仕事であるし、その仕事をしている最中はまさに生きがいを感じさせて頂いている。が、そこには出会うべき人の数が圧倒的に少ないのがわかるであろう。そのことが僕を沈鬱な気分にしてきたし、カウンセラーとしての能力は別にしても、何か物足りなさを感じさせていた、と感じる。それがストレスの要因であると思う。
今年は特に調子が悪かった。クライアントの数の若干減ったようであるし、また、自分の中の迷いが強くなったせいもある。8月からはひどかった。旅に出る気分も失せた。それから、学校の教師であれば、時折卒業生たちが、偉くなって訪ねても来てくれるが、カウンセラーの場合はいざよくなるとその性質上、できるだけ連絡は絶つ方が殆どだ。これはもと教師としてはかなり寂しいことであり、何だか使い捨てられたような感じさえ持つようになった。だんだんと僕は太り始めた。特に食べているものが理解出来ないような食べ方ではなかったが、ともかく食べていることに快感を覚えていたことと、いくら食べても満腹感が得られなかった。
これが、僕の今年の大きな反省点である。僕はクライアントに対してたいへん失礼なことを考えていたのかも知れない。カウンセリングにみえられる方々は積極的に来訪される方もいらっしゃるが、その場合においても追い詰められていらっしゃるということが殆どだ。そのことを十分に理解していなかった。それから、もうそろそろ自分の仕事の意味と意義とをしっかりと考えようと思い始めた。そうすることによって、自分の仕事に対してもっと自覚と責任が持てるといまは確信しているし、教師時代の人間に対する認識をもう転換させる必要がある、と強く思っている。だから、クライアントのみなさん、僕はもっと面倒みのよいカウンセラーになってみせます。そしてかならずみなさんの癒しに大きな役割を果たせるようになります。これが、来年の抱負です。みなさん、よろしくお願いします。またたくさんの方が僕の書くブログを読んで下さっているようです。ありがたいと想い、感謝します。つまらないことも時には書くと思いますが、僕はカウンセラーを続けながら、カウンセラーという仕事を超えて、人間として、このブログを書き続けるつもりです。どうぞこちらの決意の方も信じてやてください。このブログを書いたはじめの短い文章の中で京都カウンセリングルームは進化します、と言い切りました。来年は本物の進化をいたします。がんばります。生あるかぎり。

〇推薦図書「にぎやかな未来」筒井康隆著。角川文庫。この本は筒井康隆らしい、皮相的な文体で埋めつくされていますが、読んでいて胸がすかっとなります。それが筒井康隆の持ち味でもあります。いかがですが? 年末にこんな本でも。