ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

スマップという怪物

2006-12-07 23:38:19 | Weblog
よほど芸能界に関心がない人でない限り、スマップというグループの名前を聞いたことがない、という方は少ないのではないでしょうか。スマップはそれほど広く活躍している超人気グループにのし上がったのです。所謂ジャニーズ系のグループの一つとして登場してきたのですが、これほどの大成功をおさめた他のグループはいないし、これまでもいなかったのではないかと思います。
1960年代から70年代にかけて、グループサウンズ全盛の時代がありました。当時は、テレビのどの放送局でも歌番組があったくらいで、演歌(いまは売れないそうですが)と共存するように、様々なグループが現れてきました。たぶん、いまのスマップの人気に相当するのは、タイガースとテンプターズというグループでしたが、互いのグループ内には売りになる代表的なボーカリストがいました。タイガースは何と言っても沢田研ニですし、テンブターズは萩原健一でしょう。両者ともにこれまでグループが解散後も歌手として、俳優として活躍してきました。いまだに芸能界に、あの当時から生き残っているのは驚異的とも言えます。沢田研ニは少し太りめのオバサンのようになってしまいましたし、ショーケンと呼ばれて親しまれた萩原健一は、何度かの警察沙汰を起こし、またつい最近もある映画の出演依頼を断られたという問題で、衝突し、何だか記者会見でのインタビューでも声がひっくり返った感じで精神を病んでいるような気がしました。ともあれ、当時のグループサウンズと称されたたくさんの人気グループは全てその姿を消してしまい、芸能界の歴史上の存在になってしまったことに違いはありません。
かつてのグループサウンズのグループとスマップという5人組の男性たちとの違いは、誰かが特に優れているというのではなく、5人ともども、それぞれが異なった才能を持っていて、異なった味のテレビドラマや映画に個別に主演をハっているというところが凄いのです。勿論その中でも木村拓哉は最も目立つ存在ですが、他の4人もそれぞれの個性を出しつつ、異なった個性をフルに発揮しているのですから、これは驚きです。木村拓哉は勿論ですが、僕がもう一人特に注目しているのは草薙 剛です。この人は一見して一番目立たない感じなのですが、よい味を役柄の中で出せる有望な役者でもあります。そして、彼は日本人が外国語と言えばいまや英語というところを、草薙 剛はハングル語にこだわり、それを懸命にマスターしきりました。彼はいまや、韓国の人気俳優や歌手たちとも自由にトーク番組を組めますし、彼の人気は韓国でも凄いものがあるようです。
たぶん、スマップというグループは単なる歌って踊れるというグループではなかったのです。むしろ、歌も踊りも、他のジャニーズ系のグループと比べても、それほどずば抜けたものではありません。ヒット曲はたくさん出してはいますが、歌の巧さでいうと、スマップはヘタな部類に入ります。ダンスに関しても群を抜いているとは言い難いでしょう。とは言え、僕は今後も彼らは必ず全員が芸能界に長く生き残っていくと確信しています。何故なら彼らの一人一人の個が、それぞれに光り輝く才能をもった存在であるからです。かつてのグループサウンズたちはすぐに解散しましたが、このスマップというグループは個として活躍しながら、やはりスマップというグループを潰さずに、かなり長く解散せずに活躍していくと確信しています。それが、このグループの個の力を伸ばす源泉にもなっているからです。グループから個へ、ではなく、グループから個へ、そしてまたグループへ、という運動を繰り返しながら、彼らは自己の才能を伸ばしていくような気がするのです。このようなグループはかつては存在しなかったし、たぶん、彼らの後にも存在し得ないのがスマップという怪物たる所以です。53歳のおっさんが捉えるスマップ像とはこんな感じです。

〇推薦図書「エロティシズム」渋沢龍彦著。中公文庫。スマップはある種のエロティシズムをもったグループです。5人が5人ともに異なった種類のエロティシズムを発揮しまています。そのエロティシズムとは一体何を意味するのでしょうか。それをこの本で検証してみませんか。

次男のこと

2006-12-07 00:14:35 | Weblog
次男の誕生は救いの神であった。彼はよく笑う明るい可愛い子どもだった。健吉と名付けた。その名の通り健康ですくすくと育った。小学生の頃から勉強のよく出来る少年だった。一度精神を病んだ先生が担任になり、何かがなくなったときに、魔女狩り裁判のようなことをやられ、健吉に嫌疑がかかって、いっとき不登校になった。妻は強気な女であったから、学校へ何度も足を運んだ。校長とも掛け合ったし、教育委員会にもかけあったようである。結果、その先生は精神科に再び入院することになり、担任が代わってから健吉は元気になった。いや、僕の思い違いかも知れない、たぶん事実はその先生が担任だったときをなんとかやり過ごして、その後にその女教師は入院したのかも知れない。たぶん、そうだ。ともかく彼は復活した。小学校時代に少し肥満気味であって、学校はそんな子どもばかりを集めてラッコ教室と名付けて、おやつを食べさせてから、そのおやつのカロリーを消化するには、運動場を何周しなければいけないかというような教育?を行なっていて、ラッコ教室に入れられないために、彼はその時期が来ると小学生なのに必死に減量していたのを思い出す。小学生なのに、鋭い自意識がすでに芽生えていたのである。かなり早熟な少年だった、と思う。
中学生になって、勉強で苦労した長男のような苦しみはなかった、と推察する。彼は要領もよかったし、実際によく勉強した。クラブ活動にも積極的でテニスクラブに所属した。友達の面倒もよく見ていたように思う。頑張らなくてもよく出来る秀才肌の生徒だった。しかし、その頃僕たち夫婦の仲は微妙に悪化していて、そのことを瞬時に諒解できる感性の鋭い少年だったから、彼のストレスの表現の仕方は新しいテニスシューズが発売されれば必ず買ってほしい、と母親にごね倒すことに集約できる。玄関いっぱいに高価なテニスシューズが並んでいた。父親の僕も靴好きでよく靴を買ったのを彼は幼い頃からよく見ていたのかも知れない。それだけが、彼の要求であり、その他は驚くほどの優等生であった。冷たいそれではなく友達を大切にするタイプの青年になりかけていた。夜遅くまで外で話し込むこともあり、僕は父親として、それを叱ったが、心の中では健吉のそういうところを誇りに思っていたのである。
高校は堀川高校が進学校に変化した最初の入学生だった。彼は人間探究科というところに入った。高一にはアメリカ留学をさせるという学校になっていた。彼はニューヨークかワシントンかは忘れたが、そこからボストンを辿り、フロリダを経由して帰国してきた。彼は順調に成長していた。しかし、彼が受験期に入った頃、僕たち夫婦の仲は最悪になった。離婚騒動の渦中に健吉は巻き込まれた。家庭が平和であったら、彼は京都大学も夢ではなかったであろう。高三のとき、の日曜日の朝、健吉は確かに自分の部屋にいた。僕が家から出ていくときである。僕は彼の部屋に入って彼を思い切り抱きしめたかった。そして詫びたかった。同じ男として、父親として自分がいかに彼の生活を乱し、精神を混乱させたか、ということについて謝りたかった。しかし、僕はたぶん部屋の向こうで泣いていたであろう次男に何の声もかけることが出来ずに引っ越しの準備をし、家を出た。
彼は大阪教育大学の夜間部に入ったようである。たぶんいくら彼の勉学の邪魔をし、混乱させても、大阪教育大学の昼間部にはすんなりと入れたはずである。わざわざ夜間部を選んだのは、母親に少しでも負担をかけたくない、という彼の深い考えがあったのだろうし、それが、健吉という青年のダンディズムであったと思う。夜間部からでも、教師になり上がってやる、という彼の心の叫びが聞こえてくるようだ。苦学することを自ら選びとったのであろう、と思う。そういう男に育ったのだ、と確信する。いま、23歳になっているはずだ。そんな次男を僕は誇りに思う。いま、どうしているのだろうか。

〇推薦図書はありません。僕の勝手な思い入れの強い、息子のことですから。

長男のこと

2006-12-07 00:08:34 | Weblog
47歳のときに離婚し、いま53歳になるから、二人の息子とはまる6年間も会っていない。家が売れて、その売却費用と退職金の殆どを前妻に息子の養育費と思って手渡した。前妻には全く思い入れはない。もう21年間の生活の実質の全てが消えてなくなった。別れる間際、僕の環境を全て破壊し尽くして別れたので、一時は、彼女に対する怨念のような気分が消えなかった。まるでターミネーターであった。ある意味で、彼女も鉄の女の一人であった、と思う。僕には性格が強過ぎた。教師生活が壊れずに、あのまま生活を続けていてもいつかは破綻することになっていた、と感じる。二人の考える人生感はあまりにも大きな隔たりを生じてしまっていたような気がする。
さて、息子の話にもどる。長男はもう26歳になっているはずである。彼は大阪音大の短期大学を中退していた。彼が生まれる前、妻が妊娠を知らずに近所の風邪で内科医に通っていたが、妊娠に気づいたとき、その内科医は投薬している薬のために生まれてくる子どもには某かの障害が出る可能性が大きいから堕胎せよ、という宣告をした。僕たちはそんな可能性があると分かっていながら、生めるのか、ちゃんと育てられるのか、と悩んだ。産婦人科の先生に相談した。彼は何の迷いもなく言い放った。確かに、危険性はあるが、あなたたちに堕胎をする権利はない。たとえ何らかの障害があってもその子がそのことをいつかは受容する時が来る。ましてや、その子の命を絶つ権利はあなた方にはない、と。僕たちは説得された。そして長男は無事生まれたかのようであった。何の障害もないように見えた。僕たちは取り敢えずほっとした。が、息子が歩くころになって、僕が手を引いてよく散歩したのであったが、よく転ぶ子だなあ、という印象を持っていた。幼稚園ではみんなと一緒の行動が出来なかった。いつも一人で紙を切っているか、粘土をこね回していた。幼稚園の先生方は左右吉(そうきち)君は、天才やわ、と他の子どもたちと変わったところを褒めてくれた。小学校時代も先生に恵まれ、小さないじめはあったかも知れないが、何とか無事に中学へ進学してくれた。友達が出来なかった。先生に聞くと、休み時間になると一人で池の金魚を見てますねえ、といわれるような孤独な中学生だった。体が大きかったので、そこでも大きないじめはなかった。何となくぼんやりした感じで過ごしていた。中学の頃に一度京大病院で何かの病気のために、たまたま全身のCTスキャンを受けた。その時、僕たちは初めて彼の脳にたくさんの水がたまっていて、脳そのものを圧迫していることを知った。幸いその脳の発達はその水に妨害されながらも、中学生の頃には、その水の量はほんの少しになっていた。小さい頃はかなりの水が脳の発達を阻害したいたらしい。彼がよく転んだのもそのせいだといわれた。
アトピーがひどかった。彼は特に中学時代と高校時代に大いにそのアトピー性皮膚炎に悩まされたが、皮膚科ではいつもステロイド軟膏を出されたが、ステロイドの後遺症についてはよく分かっていたので、ある時期から一切ステロイドは使わなかった。卵やら、食べ物の制限もきつかったが、それらも一切無視して体力をつけることに力を注いだ。体力がつくにつれ、彼のアトピーはマシにはなったが、ストレスがたまると全身に出てくるのであった。十代である。顔全体をひどいアトピーに覆われたときの彼のイライラは想像し切れないものがあった。苦しかっただろう、と思う。僕は果たして自分の選択が正しかったのかどうか、悩んだ。しかし、彼の人生を影で支えることしかなかった。
現代の受験でたぶん子どもたちに一番負担をかけるのは高校受験だ、と僕は思っている。左右吉は学力がかなり下回っていた。しかし、彼は公立の二類に行くと言って聞かなかった。たぶん父親のことを彼は過大評価していて、自分にはそれ以外の選択肢はないと思い込んでいたのだ、と思う。二人でジャズが鳴り響いている喫茶店でパスタをほうばりながら説得しが、彼はニ類を受けることを譲らなかった。結局、先生が説得して一類を受けさせたが、失敗した。私学の試験は終わっていた。受験前から、僕たちは学校法人として認可されていない学校や専門学校の見学をして回った。しかし、そのどこにも彼が続きそうな学校はなかった。暗澹たる気分だった。校長の配慮があって、京都では最も低い成績で入れる南京都高校の二次試験を受けさせてもらった。そして、彼はその学校で3年間を過ごした。
人の中に入れなかった長男は、彼なりに、精一杯がんばった、と僕は思う。高ニのときに生徒会長に立候補して、当選した。彼の最大の挑戦だった。僕は何故生徒会長なのか、と思ったが、父親の僕を乗り越えたかったのだと思う。出来の悪い生徒会長で指導の先生にはご迷惑をおかけしたことと思うが、暖かく彼を見守ってくださった。ビンタも食らったようだが、それでも彼は辞めようとはしなかった。そして、彼は、小学校の3年生から始めたピアノの弾き手の名手だった。この才能は僕は大いに認める。しかし、彼はバイエルから練習をすることを絶対にしなかった。彼はショパンから弾き始めるような頑固な天才だった。それがおもしろい、と思ってくださる有名なピアノの先生が彼の面倒を見てくださった。彼は勉強も、読書もまともにはしなかったが、どんな難しいものであってもピアノの譜面を一目見ると、頭の中で譜面通りの音楽が組み立てられる才能がった。ピアノも親の欲目であるが、僕にはホロビッツを思わせた。彼は次々に難曲に挑戦していった。その中でもリストは彼の得意とするところであり、彼が好んで弾くのはショパンであった。そんな彼は大阪音大の短期大学部に推薦で入ったが、楽曲や理論は全くダメであり、彼のピアノは彼ゆえの感性による天才的で本能的な衝動で弾いていたのであり、大学教育は身につかなかった。一度留年し、その後大学を中退した。温厚な優しい人間に育っていた。弟の良き相談者でもあった。僕は彼のことを誇りに思っている。いま、彼はどうしているのだろうか。

〇推薦図書はありません。僕の勝手な思い入れの強い、息子のことですから。