教師という職業は見方によってはとてもおかしな世界である。中学や高校では一日のうちに何時間かの空き時間がある。勿論、いろいろな生徒の提出物や、小テストの採点や、何かの書類を書いたりで、これも実際には空いてはいないのである。が、時折何かの用事で、授業が始まってから、廊下を歩いて移動することがある。春先の頃は教室の入り口は空いたままになっていて、隣合った教室で教師たちが、それぞれの授業を行なっている光景が見える。生徒たちは黒板の方と教師の方を一人、二人の居眠り組の生徒を除けば、みんなが同じ方向を見ている。廊下を歩いているうちに、数クラスの光景を目にするのだが、みんな同じなのだ。休み時間が終わるとチャイムが鳴る。教師たちは職員室から、教科書の類を持ってそれぞれの教室に出かけていく。そして、前記したような光景が同じように、行なわれるのである。勿論僕自身も授業がある時は彼らと同じように、生徒たちと体面していたはずだ。語学の教師であるから多少ジェスチャーが大きいことを除いては。これらの光景はどこかの工場みたいには見えないだろうか? 生徒を進学させるための、進学工場だ。そして、おもしろみのない教科書と授業に、生徒たちは耐えている。いくら学校が中高一貫教育をやろうと、訳のわからないカタカナコースが出来ようと、成績のよい生徒とそれほどでもない生徒を別けてクラスを創ろうと、結局同じ光景であることには違いない。単純な世界である。学校に精気がないところに限って、空き時間に教師たちは自分の机にしがみついている。少し元気な学校になると、生徒のことや、よもやま話が空き時間に語られる。特に管理職が頼りない学校では教師たちは、疑心暗鬼になって、それぞれが信じられなくなって、誰それの悪口や噂話ばかりしている。これが学校であり、僕が勤めていた学校は、23年勤めていると、教師たちが退職し、人間が変わりする中で、いままで書いた状況がすべて当てはまる学校になった。こんな退屈な職場はない、というのが、僕の結論だった。僕がいたのは時折出会うすばらしい才能を持った生徒を見いだすことが楽しみだったのと、そこそこの賃金が保障されていたからである。しかし、総じておもしろくはない仕事だった。これが言葉を換えれば教師の日常であり、終わらない日常であり、スッキリとしない毎日をおくることであった。だから、僕は外へ、外へと出かけていった。毎年論文を書き、論文を書くための東京への学習会に参加し、旅行社と交渉し、生徒を海外に送る計画を立てたりし、ネイティブを雇い入れ、語学教師たちに喝を入れながら、変化をいつも自分で創造していなければならなかった。まったりと教師生活を送ることが出来なかった。そうやっていれば、いまだに教師でいたことだろうが、僕はすでに、出過ぎた教師になってしまっていたのである。こんな教師は理事会が許さないし、管理職はジェラシーを抱く。どんなことでもよかったが、僕の場合は業者癒着と称して学校を追放されることになる。僕は結局、終わらない日常に耐えきれなかった人間である。まったりとした日常を生きられなかった人間なのである。だから反抗ばかりしていた。反抗はカミュのような哲学的な反抗ばかりではない。もっとレベルの低い反抗の仕方もたくさんあるのである。たぶん僕は非常にレベルの低い反抗精神で、敵をたくさん創り過ぎたのである。学校を辞めるとき、僕の側に立ってくれる教師は一人もいなかったような気がする。僕は教師失格なのであった。僕がこういう筋道を辿ったのは何より毎日が退屈だったからである。
〇「推薦図書」「終わりなき日常を生きろ」宮台真司著。ちくま文庫。「終わらない日常」を生きることはスッキリしない日常を生きることだ、と宮台は言います。そういう混濁した世界を生きることが相対的に問題なく生きることではないかとも言います。このような発想をすると、すべてが相対主義に陥ってしまい、考える軸がなくなってしまうのではないかと僕には思えるのですが、宮台真司は、今時の社会学者のエリートとして成功している大学の先生です。あまりお勧めできませんが、一応推薦図書としておきます。
〇「推薦図書」「終わりなき日常を生きろ」宮台真司著。ちくま文庫。「終わらない日常」を生きることはスッキリしない日常を生きることだ、と宮台は言います。そういう混濁した世界を生きることが相対的に問題なく生きることではないかとも言います。このような発想をすると、すべてが相対主義に陥ってしまい、考える軸がなくなってしまうのではないかと僕には思えるのですが、宮台真司は、今時の社会学者のエリートとして成功している大学の先生です。あまりお勧めできませんが、一応推薦図書としておきます。