ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

僕はいつも退屈だった。(2)

2006-12-04 23:36:15 | Weblog
教師という職業は見方によってはとてもおかしな世界である。中学や高校では一日のうちに何時間かの空き時間がある。勿論、いろいろな生徒の提出物や、小テストの採点や、何かの書類を書いたりで、これも実際には空いてはいないのである。が、時折何かの用事で、授業が始まってから、廊下を歩いて移動することがある。春先の頃は教室の入り口は空いたままになっていて、隣合った教室で教師たちが、それぞれの授業を行なっている光景が見える。生徒たちは黒板の方と教師の方を一人、二人の居眠り組の生徒を除けば、みんなが同じ方向を見ている。廊下を歩いているうちに、数クラスの光景を目にするのだが、みんな同じなのだ。休み時間が終わるとチャイムが鳴る。教師たちは職員室から、教科書の類を持ってそれぞれの教室に出かけていく。そして、前記したような光景が同じように、行なわれるのである。勿論僕自身も授業がある時は彼らと同じように、生徒たちと体面していたはずだ。語学の教師であるから多少ジェスチャーが大きいことを除いては。これらの光景はどこかの工場みたいには見えないだろうか? 生徒を進学させるための、進学工場だ。そして、おもしろみのない教科書と授業に、生徒たちは耐えている。いくら学校が中高一貫教育をやろうと、訳のわからないカタカナコースが出来ようと、成績のよい生徒とそれほどでもない生徒を別けてクラスを創ろうと、結局同じ光景であることには違いない。単純な世界である。学校に精気がないところに限って、空き時間に教師たちは自分の机にしがみついている。少し元気な学校になると、生徒のことや、よもやま話が空き時間に語られる。特に管理職が頼りない学校では教師たちは、疑心暗鬼になって、それぞれが信じられなくなって、誰それの悪口や噂話ばかりしている。これが学校であり、僕が勤めていた学校は、23年勤めていると、教師たちが退職し、人間が変わりする中で、いままで書いた状況がすべて当てはまる学校になった。こんな退屈な職場はない、というのが、僕の結論だった。僕がいたのは時折出会うすばらしい才能を持った生徒を見いだすことが楽しみだったのと、そこそこの賃金が保障されていたからである。しかし、総じておもしろくはない仕事だった。これが言葉を換えれば教師の日常であり、終わらない日常であり、スッキリとしない毎日をおくることであった。だから、僕は外へ、外へと出かけていった。毎年論文を書き、論文を書くための東京への学習会に参加し、旅行社と交渉し、生徒を海外に送る計画を立てたりし、ネイティブを雇い入れ、語学教師たちに喝を入れながら、変化をいつも自分で創造していなければならなかった。まったりと教師生活を送ることが出来なかった。そうやっていれば、いまだに教師でいたことだろうが、僕はすでに、出過ぎた教師になってしまっていたのである。こんな教師は理事会が許さないし、管理職はジェラシーを抱く。どんなことでもよかったが、僕の場合は業者癒着と称して学校を追放されることになる。僕は結局、終わらない日常に耐えきれなかった人間である。まったりとした日常を生きられなかった人間なのである。だから反抗ばかりしていた。反抗はカミュのような哲学的な反抗ばかりではない。もっとレベルの低い反抗の仕方もたくさんあるのである。たぶん僕は非常にレベルの低い反抗精神で、敵をたくさん創り過ぎたのである。学校を辞めるとき、僕の側に立ってくれる教師は一人もいなかったような気がする。僕は教師失格なのであった。僕がこういう筋道を辿ったのは何より毎日が退屈だったからである。

〇「推薦図書」「終わりなき日常を生きろ」宮台真司著。ちくま文庫。「終わらない日常」を生きることはスッキリしない日常を生きることだ、と宮台は言います。そういう混濁した世界を生きることが相対的に問題なく生きることではないかとも言います。このような発想をすると、すべてが相対主義に陥ってしまい、考える軸がなくなってしまうのではないかと僕には思えるのですが、宮台真司は、今時の社会学者のエリートとして成功している大学の先生です。あまりお勧めできませんが、一応推薦図書としておきます。

僕はいつも退屈だった。(1)

2006-12-04 23:31:29 | Weblog
僕が教師時代に労働組合の副委員長をしている時、例の理事会にオベッかを使って、教頭になった数学教師(これは日本共産党員であり、こういう人を見るたびに僕は日本共産党が大嫌いになるのである。他にも卑劣な共産党員は学校にはびこっていて、日本共産党はこんな人たちを党員にしているのかと思うと、どうしても嫌いになるのである。真面目で誠実な党員の方々、またその支持者の方々にはまことに申し訳ないのですが)が、書記長であった。まあ、委員長は器の広い人だったから(勿論この人も共産党員なのです。なんでやねん!)、何とか平衡感覚が保たれていたようには思う。組合員の方々の中にも永年の共産党員が何人もいて、よく意見を頂いたが、これらはすべてにおいて、赤旗の記事の要約であって、元新左翼(もう実態がないのだから、こだわる必要もなかったのだが、僕のかつての学校を去った友人たちを裏切っているような気分になるのであった。そういう心情的なものでしかなかったのだが)の僕としては、おもしろくも何ともない執行委員会でしかなかった。僕が司会役をつとめていたから、意見はまとめたが、心の底ではウソだろう! というまとめ方が常だった。仕方がなかった。何せ、彼らには赤旗というバイブルがあったのだから。だから、僕は、会議中もいつも退屈していた。どうせこの人たちも、赤旗なんて無視して攻めてくる権力が理事会側に生起して、巻き返しを図るときがきたら、ひとたまりもないだろう、と密かに感じていた。多くの私学の労働組合員も同じ思想のもとに集まる学習会や大会があり、それらはいつもシャンシャン集会であり、大会なのであった。僕はある時、大きな大会の場で、赤旗とは異なる視点で質問状を書いて出した。どうもこれは大会を運営する側にはショックだったらしく、僕の質問に対して、後ほど大会機関紙で説明をするということでその場を何とかおさめたのであった。僕の主張は、かなり右寄りに傾いた思想で、組合運動の限界性を突いたものだったと記憶する。何故、当時は西本願寺にまで抗議行動をする学校の組合の副委員長が、そのような視点で、大会に於ける方針案を批判するのか、運営者側には全く理解不能であったと思う。理由は簡単だった。僕はルーティーンのようになってしまっている、シャンシャン大会に嫌気がさしていて、ただただ退屈していただけの話なのである。少しは僕の退屈感にも反応しろよ、という感覚だけで疑義を差し挟んだだけのことだった。僕はその当時、かつて1960年代の東大全共闘の委員長であり、その後、保守主義の理論的支柱になっている西部 邁著の「幻像の保守へ」(文芸春秋)に凝っていたので、僕の論理の柱は西部の保守主義が、色濃く反映されていたと思う。それからしばらくの間、僕は組合に西部が評論を書いている産経新聞を持ち込んだり、西部の作品を読みあさった。別の機会に西部の作品も紹介します。ともあれ、僕は右傾化することによって精神の平衡感覚を保っていたのです。少しは退屈感も紛れていました。しばらくの間実存主義者は棚上げ状態でした。心は真面目に考えるほど、左右にブレて当然だと僕はいまだに思っているのです。

〇「推薦図書」「幻像の保守へ」西部 邁著。文芸春秋刊。僕は保守主義とこの人を通してしか出会ったことがなかったのですが、もと左翼であったことが、この人の保守主義を強固にしている感があります。あまり偏見を持たずに一読を勧めます。

親子関係と言語交通

2006-12-04 00:31:58 | Weblog
一度きりしかやって来なかったクライアントがいる。その女の子は成人したばかりだと言う。しかし、その女の子は、僕と向き合っても、大きなぬいぐるみを抱えて離さない。左手首には無数のリストカットの後があり、いかにもなまなましい。見るだけで痛そうである。リストカットをする人たちに共通の言葉が彼女の口から出てきた。手首を切って、吹き出してくる自分の血液を見ると、生きている実感が出てくるのだそうだ。その子は前日は彼氏の部屋の外で夜を明かしたのだそうだ。彼はその子から明らかに逃げていて、部屋の中にいるのは分かっているので、彼女はドアを蹴り上げながら、それでも彼女を中に入れてくれない彼を待って、夜通しドアの外で過ごし、一睡もしないで、僕のところを訪れたのが彼女のたった一回きりの相談であった。彼女の両親は離婚していて、現在は父親にひきとられている。父親は別の女性と再婚していて、親子の会話は殆どない、と言う。家に帰ったら、一人、自分の部屋に閉じこもっているのだそうだ。いろいろ彼女の話を聞き、次回の予約をし、カウンセリングの料金がない、というので次回でいいよ、と言って、彼女を送り出した。しかし、1週間後のその予約時間になっても彼女からは何の連絡もなく、僕はすっぽかされたのである。僕は彼女と父親宛に手紙を書き、今回の顛末について、説明し、彼女がカウンセリングを受ける必要があることと、前回のカウンセリング料を指定の口座に振り込むように、要請をした。1週間後に彼女から電話があり、バイトがあるから、次の週に必ず予約の電話を入れるということであった。しかし、その1週間が過ぎても彼女からの連絡はなかった。それで、また僕はその顛末を今度は父親に向けて手紙を書いた。しかし、なしのつぶてであった。その1週間後に僕は最後の手紙を父親に向けて書いた。内容は、お宅の娘さんのリストカットの凄まじい傷痕のことを知っているか、ということ、彼女が男性依存であること、対象が男性から何に変化するかは分からないが、何らかの依存症には間違いはないので、一度精神科の診察を受けるように、ということ、それから、父親としてカウンセリング料を支払う気持ちが湧かないのであれば、それはもういいから、ともかく精神科へ娘を連れていくように要請したのである。そして、その手紙に対してもなしのつぶてであった。結論的に推察すると、彼女はリストカットを繰り返し、父親とは言葉を交わさず、部屋に閉じこもっているに違いない。父親も僕の手紙を平気で無視するような無責任な人間であろうから、娘を精神科へ連れて行ったとは思えない。だから、彼女の置かれている状況は、1回きりのカウンセリング料を踏み倒しただけの存在に過ぎなくなってしまった。この親子の関係性はたぶん言語交通が閉ざされたままのバラバラの個の存在でしかない。その間には恐ろしいほどの大きな距離感が横たわっている。言語交通が閉ざされた人間どうしの間に愛は介在しないから、この親子は、ずっと反目したまま長い時間を過ごすことだろう。あるいは、娘は、男性依存症だから、依存出来る質の良くない男性のもとに走るだけだろう。そしてもっと悲しいのは、この父親には、そのことが心配の種にもならないだろう、ということである。不幸な親子である。そもそも言語交通が何らかの理由によって(この場合は両親の離婚で母親もこの子を手離してしまったという不幸が原因だと思われる)遮断されてしまった時に、愛という存在、愛という概念は喪失されてしまうのである。もっと問題を拡げてもいい。世の中に生起する大概の解決されざる問題は、言語交通の遮断が原因である。そして、遮断されたために愛、それは人類愛である可能性もあるが、個人的な愛の可能性もある。その愛の介在なくしては、世の中の諸問題も解決不能なのである。人間存在とは元来そういうものなのである。この親子は、言語交通が介在しない愛の欠如をまるで、小宇宙の中で繰り広げているかのように、日々を切なく、無責任に生きているのであろう、と僕は思っている。こんな親子はこの日本にはたくさんあるだろう、と思うと、暗澹たる気分になる。ひどい世の中だ。

〇推薦図書「狂気について」渡辺一夫評論集。岩波文庫。暴力・人間の機械化・人間の闇に対する愛についての考察を通して生きることをテーマにした、人間の根源を洞察するエッセイ・評論集です。すばらしいですよ。