ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

「僕の歩く道」の最終回を観た

2006-12-19 23:55:28 | Weblog
草薙 剛が演じる主人公の自閉症の青年が自転車のロードレースに出る。彼は、ツールドフランスの優勝者の名前を全部暗記している青年であり、ここで彼は、たとえそれが小さなロードレースであろうと、自分に出来ることの全てを出し切るのである。知っての通り、彼は動物園の飼育係であり、彼のその時の関心事はもっぱらトビの鳴き声にあった。自分の力の限りを尽くして自転車をこぐが、彼は殆どビリに近いレースの終わりを迎えようとする。と、その時、彼の耳にトビの鳴き声が唐突に聞こえてくるのであった。彼はレースコースをそれ、トビの鳴き声の方に向かってひたすら自転車をこぐ。そして彼はついに、樹にとまったトビを発見し、その向こうには広大な風景が広がり、海がうねっていた。
主人公の草薙は、その時、トビの鳴き声を聞き、その姿を見て、無表情な感動の姿をテレビで演じてみせる。その瞬時草薙と自閉症の青年は一体化して、無言の感動を僕たちに訴えてくるのであった。主人公にとって、レースに出場することが大事なことであるのと、トビの鳴き声とその姿を観るのは、等価なのである。ここが、このドラマのすばらしいところなのである。自閉症の青年の、レースを一見放棄したかに見えた行動にこそ、人間の本来の生き方が描かれているのではないか、と僕は思った。
人生には、猛進する時があってもよいが、時として、その動きから解き放たれて停止する瞬時があることこそが必要なのである。走り続けることが、人生の価値を決めるのではない。走り続けて、失うものの方が大きかったという人生が、僕たちのまわりには腐るほどあるではないか。熟年離婚は流行りではない。それは、団塊の世代やそれ以上の年代の人々が、息せき切って走り抜いてきた日本の発展の結果と言おうか、失敗の結果と言おうか、それは評価が別れるところであろう。が、しかし、何故人生の後半になってから、お互いに別れなくてはならないのだろうか? それは停まることを忘れた人間が置き忘れてきた、愛や誠実さや、互いの癒しの欠如の結果ではないだろうか?
ドラマの終盤には、彼をいつもかばってきた女性獣医と自転車で並走する姿が描かれている。それは何を暗示しているのであろうか? 自閉症の青年は動物園の飼育係として、人間の尊厳を周囲の人々に認められ、そして彼を加護の許に置いていた家から出て、自閉症の施設に入る。彼は人間として、自閉症という難物を抱えてはいるが、自立の可能性を暗示しているのが分かる。そして、彼を小さな時から守ってきた男まさりの女性獣医は、不倫関係であった獣医との結婚を破棄することによって、新たな人生の出発をこの青年と同じ動物園で働きながら、探し当てることが出来るという、生の明るさを暗示してはいないだろうか? と、そんなことを思いながら、僕はぼんやりとテレビの最終回を見終わった。

〇推薦図書「回転木馬のデッドヒート」村上春樹著。講談社文庫。人生には様々なかたちがあってよいのです。人間の数だけ。人生に疲れた人、何かに立ち向かっている人。そういうある種のスケッチブックと思って読んでください。

50万円という借金をつくって、親父のことを思い出した

2006-12-19 00:29:17 | Weblog
何故か問題の多い親父ではあったが、僕は、どうしても彼のことを嫌いにはなれない。彼に多分に共感することが多いのである。多くを語り合ったのではない。それは皮膚感覚で、親父から感じとった感情なのである。実像の親父とはかなりかけ離れているのかも知れない。そうかも知れないのだが、僕は自分の裡に、親父という幻像を創り上げてきたような気がする。また、それでいいのだという気がするのである。父親がどんな人間であれ、父親という存在を成人してからも恨み続けているような人は気の毒な気がする。勿論本当にひどい父親もいるに違いない。この頃の事件を見ているとわが子を死に追いやってしまうような父親さえいるくらいだから。ただ、もし自分の子どもを死へ追いやるような父親がいるとするなら、彼は、人間としてもともと失格者なのである。日常生活の中における自身の行動もロクでもないことが多いに違いない。
さて、僕の親父のことをもう少し詳しく語ろう、と思う。「ちょっと長いプロフィール」にも書いたが、親父は淡路島の岩屋というところのぼんぼんに生まれ育った人間である。金は使い放題だし、昭和7年生まれだから、旧制中学のときは戦争中であったと思う。そんな時代でも朝からすき焼きを食べているような生活をしていた手のつけようのない若者だったらしい。しかし、斜陽して、一家諸共神戸へ引っ越してきて、僕が小学校の高学年を迎える頃には母方の実家を改造してもらって、住んでいた。母方の実家に住まわせてもらっている頃、父は母方の家業であったサルベージ(港湾の基礎工事をするために大きな潜水服を着て海中で仕事をするのである)の仕事をしていた。
たぶん、親父は追われた故郷に対する思い入れが強かったのだと思う。意識して淡路島の現場を請け負った。そして、その仕事はいっときは軌道に乗ったように思われた。が、もともとぼんぼん育ちであった親父は、仕事をする上でも甘かった。僕も親父の資質を受け継いでいるので大きなことは言えないが、親父は結果的に淡路島の事業で大失敗をした。もう当時の彼には払いきれないほどの借金を抱え込んで逃げるようにしてまた神戸に舞い戻った。僕なら、たぶんこの時点で自殺していた、と思う。しかし、親父はぼんぼん故の甘え上手なところがあり、何と母に祖母を説得させ(その頃は祖父は他界していた)、実家を抵当に入れさせて、銀行から金を借りてしまったのである。とは言え、このことが後年父と母との間の悲劇を生む大きな原因になるのだが。母が可愛がっていた若い女と親父は出来上がってしまったのであり、母にしてみれば自分の実家まで抵当に入れて頑張ったのに、自分をそんなふうに裏切った親父を包丁で胸を刺し貫く、という蛮行にまで及んでしまったのだから、人間、あまりに常識を踏み外し過ぎると、手ひどい見返りを受けるようなのである。おおもとをたどると親父の死が58歳という年齢なのは、これがもともとの原因だと僕は思っている。だからと言って、いまは母を憎んではいないし、年老いた母とは連絡は絶やさないでいる。
母の実家を抵当に入れるまでの生活は惨めであった。事業における税金滞納で、税務署員がやってきて、家にあるもの、処分できそうなもの、すべてに赤札(本当に赤札であった!)を貼りつけていった。僕の机も本棚も当時は珍しかったステレオもカラーテレビ(これらはすべていまで言うローンで買っていたようだ)にも、すべて赤札が貼られた。僕は中学生になっていたが、よくしたもので、神経が麻痺してしまっていたので、それほどの衝撃は受けなかったように思う。まだ子どもだったのだ。大人としてあれを経験していたら、さっきも書いたように確実に自殺に追い込まれていただろう。その意味では強い両親ではあったし、人の良い祖母であった、と今さらながら思う。この続きはまた書くことにします。いまは父親も母親も結果的には、借金生活が常習の人間であったにも関わらず、強く、逞しく生きていたように思うのです。

〇推薦図書「父親」遠藤周作著。集英社文庫。(上)(下) 遠藤周作の描いた父親像と僕の父親像とがまるで違うのは当たり前のこととして、僕が、上記のような出来事の後に、学生運動に走ったのは、ある程度共通項があります。まあ、僕の親父の話などではなく、よく書けた小説だと思いますので一読をお勧めします。