オリンピックは、確かに国家別の競技者が競う場として、僕たちは認識しているはずだ。国家という政治体制や、経済のあり方によって、人間がいまだに国家という理念に縛られているのが、21世紀の現況なのである。そもそも冬のスポーツにはまるで興味がない僕が、冬季オリンピックを語るのはどうかと思うが、ド素人である僕にもおかしなことが目についたので、忘れぬうちに書いておこうという、今日はかなり安易なブログである。
スノボーというものがまず分からない。その前にスキ-にも興味すら湧かない。とは言え、スキーウェアーにはまだ違和感を感じることはないが、スノボー選手たちの日常の服装であれ、競技用の服装であれ、僕みたいな時代遅れのおっさんには、時代は変わったなあ、というのが正直な観想なのである。幼い頃からスノボーのプロだというから、かなりな才能の持ち主なのだろうが、スノボー好きな素人も含めて、国母和宏くんの選手団の服装の着こなしには、確かにおかしなスタイルだなあ、という気はしていた。だって、長い脚が、あれだけパンツをズリ下げたら、やっぱりおかしいのである。足の長いことを強調することに躍起になっていた僕たちの青年の頃とはまるで違ったファッションセンスが、空港での彼の服装には在った。ああ、ああいうのが、いまは格好がいいんだな、とその日の何杯目かのコーヒーを飲みながら、慨嘆したものだ。
しかし、アホやと思ったのは、時代感覚も、そのジャンル独特の雰囲気も分からないで、服装の着こなしが悪いと言って、国会でこれから競技に臨もうとしている青年のことを問題にした、わけの分からん自民党の国会議員の存在には心底驚いた。というよりも、度し難いという表現の方がそのときの僕の想いには近い。こういう自分の価値観、何故だか分からぬが、日本の代表を気どっているような錯覚を生きているような輩は、早々に国会から立ち去るべきだ。おとなとして恥ずかしいったらないからね。
そもそも冬季に限らず、オリンピックにおいて、若い選手たちが集うのは、国家代表として参加をする形態であれ、競技を闘う中で、国家などという帝国主義の名残りなど、どこかにすっ飛んで、国の枠を超えた人間関係、仕事の在りようが、僕たちがこの世界からまさに退場する頃には、出来あがっていきつつあるのか、と思うとまだまだ捨てたもんじゃあないな、と思わせてくれるのが喜ばしいのである。だからこそ、おとなは、オリンピックに参加する選手には、国の威信などをおっ被せたらアカンのよ。それぞれの国の国民ももっと余裕を持って選手を見てあげないと、選手たちが古めかしい国家を意識させられて彼らの時代の意味を見失いかねなくなる。
フィギアスケートのキム・ヨナ選手だって、韓国は騒ぎ過ぎだ。マスコミの論調も、金メダルをとってあたりまえのごとき報道をやって平気なのだ。今回、彼女の強気が勝って、金メダルがとれたからよかったものの、ヘタをすると、フリー演技で大失敗でもしていたら、自殺だってしかねないところまで、おとなたちが追い詰めていたと思う。それは浅田真央についても同じことが言える。
演技の難易度から云うと、あれだけの大差がつくというのも、ジャッジたちが、キム・ヨナを取り巻く雰囲気にかなり影響されていた思う。僕の素人目で見ても、キム・ヨナの難易度の演技と、しかしノーミスの流れるような演技は、むしろ安藤美姫との比較論で評価されるべきだったのではないか、と思う。トリプルアクセルを二度もフリー演技にとりいれた浅田真央が金メダルではなかったか、と思う。キム・ヨナと安藤美姫が銀と銅メダルを争ったはずの今回の試合は、どうも評価する側のおとなの感覚がズレていたような気がしてならない。
専門家でもないのだから、競技の評価に対しては単なる勝手な解釈に過ぎない。しかし、これだけは言っておきたい。オリンピックは確かに国家単位で参加する大競技会である。しかし、そこには、国家という古めかしい帝国主義の名残りを食い破っていくだけのエネルギーをこれからの若い人たちには感じとってもらいたい、と痛切に願う。もうすぐにこの世界から去りゆくおとなたちが、若者のことをとやかく言うのがどうかしているのである。石原慎太郎の、あの選手たちを小馬鹿にした態度、許せんね。あれは時代遅れの帝国主義者だな、やっぱり。
京都カウンセリングルーム
スノボーというものがまず分からない。その前にスキ-にも興味すら湧かない。とは言え、スキーウェアーにはまだ違和感を感じることはないが、スノボー選手たちの日常の服装であれ、競技用の服装であれ、僕みたいな時代遅れのおっさんには、時代は変わったなあ、というのが正直な観想なのである。幼い頃からスノボーのプロだというから、かなりな才能の持ち主なのだろうが、スノボー好きな素人も含めて、国母和宏くんの選手団の服装の着こなしには、確かにおかしなスタイルだなあ、という気はしていた。だって、長い脚が、あれだけパンツをズリ下げたら、やっぱりおかしいのである。足の長いことを強調することに躍起になっていた僕たちの青年の頃とはまるで違ったファッションセンスが、空港での彼の服装には在った。ああ、ああいうのが、いまは格好がいいんだな、とその日の何杯目かのコーヒーを飲みながら、慨嘆したものだ。
しかし、アホやと思ったのは、時代感覚も、そのジャンル独特の雰囲気も分からないで、服装の着こなしが悪いと言って、国会でこれから競技に臨もうとしている青年のことを問題にした、わけの分からん自民党の国会議員の存在には心底驚いた。というよりも、度し難いという表現の方がそのときの僕の想いには近い。こういう自分の価値観、何故だか分からぬが、日本の代表を気どっているような錯覚を生きているような輩は、早々に国会から立ち去るべきだ。おとなとして恥ずかしいったらないからね。
そもそも冬季に限らず、オリンピックにおいて、若い選手たちが集うのは、国家代表として参加をする形態であれ、競技を闘う中で、国家などという帝国主義の名残りなど、どこかにすっ飛んで、国の枠を超えた人間関係、仕事の在りようが、僕たちがこの世界からまさに退場する頃には、出来あがっていきつつあるのか、と思うとまだまだ捨てたもんじゃあないな、と思わせてくれるのが喜ばしいのである。だからこそ、おとなは、オリンピックに参加する選手には、国の威信などをおっ被せたらアカンのよ。それぞれの国の国民ももっと余裕を持って選手を見てあげないと、選手たちが古めかしい国家を意識させられて彼らの時代の意味を見失いかねなくなる。
フィギアスケートのキム・ヨナ選手だって、韓国は騒ぎ過ぎだ。マスコミの論調も、金メダルをとってあたりまえのごとき報道をやって平気なのだ。今回、彼女の強気が勝って、金メダルがとれたからよかったものの、ヘタをすると、フリー演技で大失敗でもしていたら、自殺だってしかねないところまで、おとなたちが追い詰めていたと思う。それは浅田真央についても同じことが言える。
演技の難易度から云うと、あれだけの大差がつくというのも、ジャッジたちが、キム・ヨナを取り巻く雰囲気にかなり影響されていた思う。僕の素人目で見ても、キム・ヨナの難易度の演技と、しかしノーミスの流れるような演技は、むしろ安藤美姫との比較論で評価されるべきだったのではないか、と思う。トリプルアクセルを二度もフリー演技にとりいれた浅田真央が金メダルではなかったか、と思う。キム・ヨナと安藤美姫が銀と銅メダルを争ったはずの今回の試合は、どうも評価する側のおとなの感覚がズレていたような気がしてならない。
専門家でもないのだから、競技の評価に対しては単なる勝手な解釈に過ぎない。しかし、これだけは言っておきたい。オリンピックは確かに国家単位で参加する大競技会である。しかし、そこには、国家という古めかしい帝国主義の名残りを食い破っていくだけのエネルギーをこれからの若い人たちには感じとってもらいたい、と痛切に願う。もうすぐにこの世界から去りゆくおとなたちが、若者のことをとやかく言うのがどうかしているのである。石原慎太郎の、あの選手たちを小馬鹿にした態度、許せんね。あれは時代遅れの帝国主義者だな、やっぱり。
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