○ジュリアン・ソレルのごとき生き方は、やはり夢のまた夢だったかー
あのゴツクタイ体躯のスタンダールの脳髄の中から絞り出した青年ジュリアン・ソレルとは、溢れるような知性と、痩身だが筋肉質のすらりとした体型と、当時の貴族夫人ならひとたまりもないほどに惚れてしまう美貌と、何より野心溢れるエネルギッシュな行動力の持ち主として、「赤と黒」の創作空間の中に忽然と姿を現すのである。昨今のイケメン程度の青年が大人の女性を垂らし込んでも、なんということもない、よくある色恋沙汰に過ぎないが、ジュリアンの貴婦人の落とし方には、野心と知性とがない交ぜになった底力のごとき恋情が介在するのである。野心ゆえに近づいた貴婦人たちに、野心という次元を遥かに超えた愛の原型らしきものを彼女たちの心に刻印するさまは、単なる色恋沙汰ではない、青年ジュリアンの知性あってのなせる業としか表現のしようのないものである。しかし、はっきりと云えることは、ジュリアンは身分の高い女性を我がものとはするが、絶対に独占欲に溺れたりはしないし、愛の先にあるものを見据えてもいるのである。それがジュリアン・ソレルという青年のしたたかさである。
青年の頃、片方のポケットに、マルクス、エンゲルスの何冊かの文庫本、もう片一方のポケットにはスタンダールの文庫本を入れて歩いていた。それに加えて、ボードレールの「パリの憂愁」。僕は過激な活動家でありながら、どちらかと云うとジュリアン・ソレルの野心と彼に野心を抱かせた貴族社会という巨大なヒエラルキーに対する反抗の仕方に憧れた。暴力革命よりは、ヒエラルキーそのものの中に入り込み、ヒエラルキーを支える土台を突き崩してやろうとする一人ぼっちの孤高の闘い。ボードレールの詩集に託された人間の心の奥底に沈殿した暗黒の、その果ての美しさ。そして両者に共通するのは、滅びの美学である。僕は確実に政治というカテゴリーから外れた活動家?だったと思う。たぶん、どこかの時点で自滅したかったのだ、とも思う。
自分勝手につくりかえたジュリアン・ソレルが僕の心を占領していたし、だからこそ、ジュリアンの野心崩れて、ギロチンの露と消えたことと自分を重ね合わせていたのだろう。野間宏が戦争体験を「崩壊感覚」という秀作で告発したのとはまったく違う意味で、僕は、自己の崩壊を願っていたし、それを願う感覚をこそ、僕自身の崩壊感覚である、と認識していたのである。僕が自己の人生を完全なる失敗作だと思うのは、これまでの人生で何度も遭遇した崩壊寸前の状態から、中途半端に立ちあがってきたからである。そこには何も学ぶべきものなどなかった。ジュリアンに重ね合わせていた崩壊感覚の感性は鈍るし、かといって、生きる意欲が高揚したわけでもない。むしろ自己の生命力が弱体化するばかりであった。そして、弱体化した極限がいまの僕の寄って立つ位置なのだから、もはや救いはない。これにて書く気力なし。パラパラとスタンダールか、フロベールの著作を、指を舐めつつめくってみよう。これこそ、老体化した男の読書法だから。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
あのゴツクタイ体躯のスタンダールの脳髄の中から絞り出した青年ジュリアン・ソレルとは、溢れるような知性と、痩身だが筋肉質のすらりとした体型と、当時の貴族夫人ならひとたまりもないほどに惚れてしまう美貌と、何より野心溢れるエネルギッシュな行動力の持ち主として、「赤と黒」の創作空間の中に忽然と姿を現すのである。昨今のイケメン程度の青年が大人の女性を垂らし込んでも、なんということもない、よくある色恋沙汰に過ぎないが、ジュリアンの貴婦人の落とし方には、野心と知性とがない交ぜになった底力のごとき恋情が介在するのである。野心ゆえに近づいた貴婦人たちに、野心という次元を遥かに超えた愛の原型らしきものを彼女たちの心に刻印するさまは、単なる色恋沙汰ではない、青年ジュリアンの知性あってのなせる業としか表現のしようのないものである。しかし、はっきりと云えることは、ジュリアンは身分の高い女性を我がものとはするが、絶対に独占欲に溺れたりはしないし、愛の先にあるものを見据えてもいるのである。それがジュリアン・ソレルという青年のしたたかさである。
青年の頃、片方のポケットに、マルクス、エンゲルスの何冊かの文庫本、もう片一方のポケットにはスタンダールの文庫本を入れて歩いていた。それに加えて、ボードレールの「パリの憂愁」。僕は過激な活動家でありながら、どちらかと云うとジュリアン・ソレルの野心と彼に野心を抱かせた貴族社会という巨大なヒエラルキーに対する反抗の仕方に憧れた。暴力革命よりは、ヒエラルキーそのものの中に入り込み、ヒエラルキーを支える土台を突き崩してやろうとする一人ぼっちの孤高の闘い。ボードレールの詩集に託された人間の心の奥底に沈殿した暗黒の、その果ての美しさ。そして両者に共通するのは、滅びの美学である。僕は確実に政治というカテゴリーから外れた活動家?だったと思う。たぶん、どこかの時点で自滅したかったのだ、とも思う。
自分勝手につくりかえたジュリアン・ソレルが僕の心を占領していたし、だからこそ、ジュリアンの野心崩れて、ギロチンの露と消えたことと自分を重ね合わせていたのだろう。野間宏が戦争体験を「崩壊感覚」という秀作で告発したのとはまったく違う意味で、僕は、自己の崩壊を願っていたし、それを願う感覚をこそ、僕自身の崩壊感覚である、と認識していたのである。僕が自己の人生を完全なる失敗作だと思うのは、これまでの人生で何度も遭遇した崩壊寸前の状態から、中途半端に立ちあがってきたからである。そこには何も学ぶべきものなどなかった。ジュリアンに重ね合わせていた崩壊感覚の感性は鈍るし、かといって、生きる意欲が高揚したわけでもない。むしろ自己の生命力が弱体化するばかりであった。そして、弱体化した極限がいまの僕の寄って立つ位置なのだから、もはや救いはない。これにて書く気力なし。パラパラとスタンダールか、フロベールの著作を、指を舐めつつめくってみよう。これこそ、老体化した男の読書法だから。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃