○現代における理論と実践について語ろう、と思う。
理論と実践を包括するものが、思想である。つまりは、思想とは、脳髄の中で捏ねまわすだけのものではなく、必ず構築した理論に基づいた実践が伴わなければ、無価値である。賢い人々はたくさんおられるが、現代においては、なかなかに実践の場を見出し得ないのが実情のようなので、切っ先鋭い論法であれ、その内実が、空疎な抜けがらのごときものであるのも致し方なし、と腹を括るしかない。しかし、絶望はしていない。中途半端な年齢の、己れに思索する力があると錯誤している人々は、すでにその時点から守りの姿勢に入っているわけで、そこに思想の発展性もなければ、無論思想の実践化も起こり得ないのが道理である。
僕が絶望していないと書いたのは、現代に生きる青年たちの人生に対する立ち向かい方に大きな希望を抱いているからである。彼らは事のはじまりから、閉塞した時代の中で、自己のアイデンティティを確立しようとしてもがいてきたのである。彼らを縛る世間的常識とは、アメリカの無節操な拝金主義が行き着く果てまで行き着いて、それでも懲りずに銭をせしめた輩たちは巨額の金銭を独占するシステムを創り出した。しかし、その一方で、多くのアメリカの庶民はとりわけサブプライム・ローンのシステム破綻のあおりを受けて破産する者続出である。日本では喧しい議論として格差社会などとマスコミは報じるが、国家としてアメリカは破綻状態である。その影響をもろに受けており、世界不況とは云うものの、最も大きな犠牲を強いられているのが、この日本なのである。このような時代性の中で、次世代を担う青年たちが未来を切り開こうとしているのである。希望を抱かずにいられようか!少なくとも彼らの邪魔にはなるまい、と思うばかりである。
現代に生きる青年たちにとっての思想の確立、すなわち理論構築とその実践化とは、当然観念的なものであるはずがない。それは、たぶんにプラグマティックな様相を帯びているのが当然の姿であろう。また、そうであるべきだ、と思う。幸い、現代は情報量だけは、過去のどの時点と比べても膨大である。そしてそれらの情報は、特別な身分制など不必要なかたちで、誰にでも共有し得るものとなっている。従って、現代における思想の確立とは、無整理で、かつ広範囲に渡る情報をいかにして実証主義的に整理し、それらをいかにして、あらゆる状況に投下させ得るかというのが、現代における理論の実践化の内実であろう。もはや去りゆく人間である僕ごときに、とやかく言う権利も余地もない。大いに現代風の理論構築とその実践の試行錯誤の過程で、新たな価値意識を、また新たな生活の次元の高揚感を若き人々に感得してほしい、と心から願う。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
理論と実践を包括するものが、思想である。つまりは、思想とは、脳髄の中で捏ねまわすだけのものではなく、必ず構築した理論に基づいた実践が伴わなければ、無価値である。賢い人々はたくさんおられるが、現代においては、なかなかに実践の場を見出し得ないのが実情のようなので、切っ先鋭い論法であれ、その内実が、空疎な抜けがらのごときものであるのも致し方なし、と腹を括るしかない。しかし、絶望はしていない。中途半端な年齢の、己れに思索する力があると錯誤している人々は、すでにその時点から守りの姿勢に入っているわけで、そこに思想の発展性もなければ、無論思想の実践化も起こり得ないのが道理である。
僕が絶望していないと書いたのは、現代に生きる青年たちの人生に対する立ち向かい方に大きな希望を抱いているからである。彼らは事のはじまりから、閉塞した時代の中で、自己のアイデンティティを確立しようとしてもがいてきたのである。彼らを縛る世間的常識とは、アメリカの無節操な拝金主義が行き着く果てまで行き着いて、それでも懲りずに銭をせしめた輩たちは巨額の金銭を独占するシステムを創り出した。しかし、その一方で、多くのアメリカの庶民はとりわけサブプライム・ローンのシステム破綻のあおりを受けて破産する者続出である。日本では喧しい議論として格差社会などとマスコミは報じるが、国家としてアメリカは破綻状態である。その影響をもろに受けており、世界不況とは云うものの、最も大きな犠牲を強いられているのが、この日本なのである。このような時代性の中で、次世代を担う青年たちが未来を切り開こうとしているのである。希望を抱かずにいられようか!少なくとも彼らの邪魔にはなるまい、と思うばかりである。
現代に生きる青年たちにとっての思想の確立、すなわち理論構築とその実践化とは、当然観念的なものであるはずがない。それは、たぶんにプラグマティックな様相を帯びているのが当然の姿であろう。また、そうであるべきだ、と思う。幸い、現代は情報量だけは、過去のどの時点と比べても膨大である。そしてそれらの情報は、特別な身分制など不必要なかたちで、誰にでも共有し得るものとなっている。従って、現代における思想の確立とは、無整理で、かつ広範囲に渡る情報をいかにして実証主義的に整理し、それらをいかにして、あらゆる状況に投下させ得るかというのが、現代における理論の実践化の内実であろう。もはや去りゆく人間である僕ごときに、とやかく言う権利も余地もない。大いに現代風の理論構築とその実践の試行錯誤の過程で、新たな価値意識を、また新たな生活の次元の高揚感を若き人々に感得してほしい、と心から願う。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃