ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○いったい精神科医って、何のために存在するのだろうか?

2010-03-22 17:06:59 | 精神病理
○いったい精神科医って、何のために存在するのだろうか?

尊敬に値する精神科医も確かにいる。しかし、かつての私のカウンセリングルームを訪れた方々の中で、精神科医にかかったためにかえって病状を悪化させていたり、精神科医が、とんでもない誤診をして、不要な薬を患者に呑ませ、症状を悪化させてしまったなどということは、決してめずらしい諸例ではない。

褒められたことではないが、私がカウンセラーとして起業するにあたって、果たして精神薬がこれだけ巷にあふれている状況の中で、精神薬の効用とは如何なるものか、どうしてもさまざまな症状を装ってでも、精神薬の効用を自分の体を実験台にしてでも確かめたくなった。そのような想いで、数十件の精神科・心療内科・神経内科(名称は異なるが、治療内容は同じようなものである)を巡った。たとえば、うつ病の薬を何種類か試飲するために、うつ病であることを医師に伝えなければ当然のことだが薬の処方はなされない。パニック障害しかり、その他の精神疾患のあらゆる症状を、短すぎる診察時間の間に訴えると、想像通りの薬が処方されるのである。私の目論見は、クライアントがどのような薬を呑み、またその薬はどのような効用と副作用が在るのかを確かめたかったということなので、いまさらながらだが、関係した医師の方々には陳謝するが、その一方で、誰一人として、私のウソの病状申告を見抜ける人はいなかったのも事実なのである。

このことから何が云えるかというと、精神科医の殆どは患者を観ていないということである。精神疾患は、その病例のどれ一つをとっても、患者の症状を傾聴することからはじめ、深い洞察を通して、病気の特定をしなければならない。しかし、よく云われるところの3分間診断では、とりわけ精神科においては、患者からの問診からすべてを見通す必要がある課目だけに、そのようなことは到底不可能なことになるのは必然である。精神科は、他の課目と異なり、医療訴訟が起こりにくいと聞く。昨今の医学生たちの人気課目が、精神科であり、その他の課目に行きたがらない学生が多い、と嘆いていた医学部の指導教授がいたことを思い出す。薬の処方屋になりさがっても、儲けは大きい。たとえ診断が決定的に間違っていても訴訟は起こることはまずないとくれば、ふつつかな医学生ならば、精神科医を目指すのは理の当然か?それを補うために臨床心理士がいるはずなのに、彼らは精神科医の下働きに甘んじざるを得ない。ヒエラルキーが確立してしまっているのである。臨床心理士の地位向上を目指しながら、結局医師と同様に大学院を含めて6年間の勉学を経たのちに、医師国家試験とほぼ同レベルの国家試験を通過しなければ、臨床心理士にはなれない。それなのに、彼らが臨床心理士になるまでに要した授業料などを含む諸費用をペイするにはなかなかに難しいのが現状だろう。

河合隼雄の功罪が大きいと思う。彼がむやみに臨床心理士になる道を狭めた。その上、その難関をくぐってきた臨床心理士の社会的地位をあげることを河合は怠ったと思う。自分だけがその筋の権威として目立つことを望んだ結末が、現況の悲劇を生んでいる。そもそも、河合の代表作である「影の現象学」(講談社学芸文庫)を読んでみれば、河合隼雄の頭脳のレベルが知れる。論理の混乱が散見出来るつまらない書である。こういう状況の中にあってこそ、精神科医のみなさんが、医学書、特にアメリカ精神学会の病例分類に頼りすぎることなく、幅広い読書をし、洞察力を磨いてほしいものだとつくづく思う。


文学ノートぼくはかつてここにいた    長野安晃