ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○山田洋二という才能と毒―渥美清をめぐって

2010-03-23 21:11:33 | Weblog
○山田洋二という才能と毒―渥美清をめぐって

 近頃の山田洋二は、大きな賞にも恵まれ、意欲的な作品に取り組んでおり、そのような状況をみるにつけ、長年の山田の頽落にも似たエンターティンメント性と、その渦中に巻き込まれた才能豊かな役者の可能性を意図的かそうでないのかは定かではないが、とりわけ大衆映画として大ヒットを飛ばした「寅さん」シリーズによって、ズタズタに切り裂いたのである。結論から云うと「寅さんシリーズ」とは、山田洋二にとっても、渥美清にとっても、互いの才能を伸ばすという点において、悲劇的とも云える経緯を辿った作品群だったと僕は思う。

 「寅さん」シリーズにおいては、相も変わらぬ状況設定の繰り返し。マドンナが誰になるかという週刊誌並みの庶民の興味。現代においては、日本のどこを探しても見つかるはずのないムラ社会的な濃密な人間関係、家族関係、男女関係の退屈極まりない繰り返し。「寅さん」シリーズを絶賛するええオトナに、若者のマンガへの傾注を批判する資格はない。渥美清演じる主人公とは、人間の感性の点で云うと、過ぎ去りし日の郷愁を掻き立てる役割を演じつつ、郷愁そのものの象徴的存在として、映画の中に立ち現れる。「寅さん」ファンは、もう自己の手からこぼれ落ちて、踏みにじられて、もはや見る影もないほどに変質した、過去の素朴な人間像をスクリーンの中に見出しては、自慰的な過去への入り口に入り込むのである。

 山田洋二も渥美清も、大衆の人気とそれに伴う収益を我がものとするプロデゥーサーやスポンサーたちの意図を無視出来なかったのだろうが、それにしても、「寅さん」シリーズは余りに長過ぎた。このシリーズに出会うまでの両者はともに、すばらしい才能を開花させていたのである。山田は、有島一郎を主人公とする映画に独特のモノローグをとりこんだ名作を創っていたし、渥美に至っては、「泣いてたまるか」というシリーズ物の映画で、何十回と続くシリーズだが、これは「寅さん」とはまるで違って、渥美が一話ごとに役割を換えて、主役を演じきるという醍醐味があった。その度ごとに渥美の演技力の深さに凄みが増していき、どう控えめに見ても、美形ではない役者が、一流どころの演技派俳優になっていたのである。

 山田洋二はよい。渥美清が鬼籍に入って「寅さん」シリーズから解放されるや、以前にも増して次々と新たな映像芸術の可能性を広げつつある。しかし、渥美清に至っては、自己の有り余る才能を殺して、寅さんであり続けたのは、渥美の覚悟の上での俳優魂なのか、ダンディズムなのか?それにしても、僕は、「寅さん」シリーズの愛好家たちがいまだに大嫌いなのである。理由はすでに書いた。今日の観想とする。

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