ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○命の重さかー?

2010-03-21 23:00:17 | 観想
○命の重さかー?

あるテレビの番組を観るともなく観ていると、全身の筋肉が委縮して、自分では意識があるのに、その意識を伝える術がない難病患者が、わずかに動く頬の筋肉の動きをコンピュータに連動させて、自分の考えを開示していくドキュメンタリードラマに出会った。そこで問題となったのは、人工呼吸器をつけなくてはならない状況に立ち至ったときには、人口呼吸器を外し、死に至らしめてほしいという嘆願書を病院に向けて3年前に本人が提出したことが話題になったからである。現代における日本の医療は、患者の意思やその家族の意思とは無関係に延命治療が可能な場合は、患者を生き長らえさせておくシステムが出来あがっている。ここで大切なことは、患者本人の意思に関わりなく、という一点である。この場合、家族は家族関係によってさまざまな思惑が働くので、敢えてその存在については触れない。

無論、自死するだけの病気の症状や、そのような環境に置かれていれば、その選択肢は医師が何と言おうと、本人の考え方ひとつで、生きるか、はたまた死するかは、その手段さえ選ばなければ、選択肢は本人に在る。しかし、意識がもどったとき、すでに四肢の自由が奪われてしまっていたり、自己表出の手段さえ奪われているような場合、どうするか、と云う問題であろう。

自分の意思が働いた場合もあり、そうでない場合も含めると、死線を彷徨ったことは何度かある。僕は人の生死の問題は、一般論など通用しない領域のことだから、自分の考え方に普遍性などそもそも在るなどとは思ってはいない。そのような精神性のありようからものを云うならば、僕は、自死の自由を終末医療の問題だけに留まらせるのではなく、死する原因が何であれ、本人が生を選びとらずに死を選ぶのならば、安楽死も含めた生命に関する議論がなされねばならないと常々思っている。生きるということに、単純なヒューマニズムの精神を被せたり、死よりも生に価値あり、とするようなありふれた生命観の披歴はご免被りたいものである。命を自ら断ったら、自分を愛する者たちに対してどうのこうの、といったつまらない発想にはウンザリである。人間は、他者との関係性の中で生きているのだから、自分の死が他者に影響を与えないはずがないではないか。そんなことは百も承知で、生の中断としての死を、自己の意思が通用しない状況下では迎えたくはない、と僕は考えるのである。

尊厳死のあり方を法律で定めているオランダやベルギーでの詳細は分からないが、むしろこういう国が優れていると思うのは、死というものに対する深い理解が、逆に生に対する理解を増すということをよく諒解していることである。その意味においては、日本の医療はダメである。人間のために在るのではなくて、医療のために医療が在るからである。脳死が人間の死と認められたのも、医師たちが臓器移植の実験を、ダメージの最も少ない脳死状態の臓器で行いたい、という荒業のごとき論議で決めたことだ。そこに臓器移植を受けた患者がいかに拒絶反応に苦しむか、また、そのような危険を犯して臓器移植をしても存命率は極端に低いことなどを考えれば、決して本質的には、患者側、もっと云えば、人間の尊厳の側に立った思想ではないだろう。

人はいつかは死と直面する。問題は如何なる死との邂逅が、死を迎える人間にとって意味あるものか、という視点で、人は自己の生死を考えなければならないと云うことである。その意味においては、尊厳死の法的整備は、いくら急いでも早すぎることはない、と思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃