○虚構と現実
敢えて、現実と虚構と書かなかったのは、日常生活の中ですら、生起する出来事を規定する場合、それを現実的と称してよいのか、はたまた虚構と称してよいのかを決定づけるのは、意外に難題であるからである。ここで云う虚構とは、非日常と言い換えてもよい。つまりは、我々の世界像については、日常と非日常という区分は、極論すると不可能だ、ということでもある。人間にとっての日常性なるものは、簡便な言葉で表現すると、<慣れ>に過ぎないものであって、災害・戦争・飢饉・経済基盤の激変・社会通念の変革などによって、従来の日常は非日常へと簡単にスライドするのである。人間は、ともすると日常性の中に普遍的な価値意識を感じ取ろうとする傾向があるが、それは日常性という<慣れ>の中に身を置く場合に、出来る限り、変化、それも急変などが起こり得ない状況を望むからに過ぎない。その意味で、人間とは、あるいは、日常を支えているありとあらゆる体制とは、保守的な色彩を帯びていて当然なのである。
人がこのような意味で、保守的であるのことを間違っているとは思わない。僕が云いたいのは、人間とは、そもそも存在論的には保守的な性向を保持しているということである。だからこそ、不条理な世界を変革するための革命は、それが成就したその瞬間から革命によって得た新たな価値観を保持しようとする考え方が裡に湧くのである。したがって、如何なる意味における革命理論も、その理論の中に革命の永続的なファクターを導入しなければ、革命理論そのものが破綻するというジレンマを抱えている。トロツキーが世界革命論という永続的革命理論のために、革命が成功したロシアから逃げ出さざるを得なかったのは、彼が、革命によって得た利権を保守しようとする勢力を、より高次元の世界像に連結させ得るのか、という視点を革命理論の中に組み込むことが出来なかったからである。また、キューバ革命を成功に導いたチェ・ゲバラが自らの大臣の椅子を投げ捨てて、ボリビアの密林の中で闘い、そして死したのは、革命理論の不可能性をよく物語っているのではなかろうか。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
敢えて、現実と虚構と書かなかったのは、日常生活の中ですら、生起する出来事を規定する場合、それを現実的と称してよいのか、はたまた虚構と称してよいのかを決定づけるのは、意外に難題であるからである。ここで云う虚構とは、非日常と言い換えてもよい。つまりは、我々の世界像については、日常と非日常という区分は、極論すると不可能だ、ということでもある。人間にとっての日常性なるものは、簡便な言葉で表現すると、<慣れ>に過ぎないものであって、災害・戦争・飢饉・経済基盤の激変・社会通念の変革などによって、従来の日常は非日常へと簡単にスライドするのである。人間は、ともすると日常性の中に普遍的な価値意識を感じ取ろうとする傾向があるが、それは日常性という<慣れ>の中に身を置く場合に、出来る限り、変化、それも急変などが起こり得ない状況を望むからに過ぎない。その意味で、人間とは、あるいは、日常を支えているありとあらゆる体制とは、保守的な色彩を帯びていて当然なのである。
人がこのような意味で、保守的であるのことを間違っているとは思わない。僕が云いたいのは、人間とは、そもそも存在論的には保守的な性向を保持しているということである。だからこそ、不条理な世界を変革するための革命は、それが成就したその瞬間から革命によって得た新たな価値観を保持しようとする考え方が裡に湧くのである。したがって、如何なる意味における革命理論も、その理論の中に革命の永続的なファクターを導入しなければ、革命理論そのものが破綻するというジレンマを抱えている。トロツキーが世界革命論という永続的革命理論のために、革命が成功したロシアから逃げ出さざるを得なかったのは、彼が、革命によって得た利権を保守しようとする勢力を、より高次元の世界像に連結させ得るのか、という視点を革命理論の中に組み込むことが出来なかったからである。また、キューバ革命を成功に導いたチェ・ゲバラが自らの大臣の椅子を投げ捨てて、ボリビアの密林の中で闘い、そして死したのは、革命理論の不可能性をよく物語っているのではなかろうか。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃