ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○過去になど、もどりたくもないけれど。

2010-03-26 13:48:41 | 観想
○過去になど、もどりたくもないけれど。

そもそも、自分の青年期の頃の思い出など、決して感傷的に書くつもりはないのです。あの頃の自分の感覚なんて、傲慢そのものだったし、またその感覚とは正反対の悲観主義に見舞われては、自分の将来への可能性を心底懐疑的に考えては、社会になど出て、いったい自分に何が出来るのかという想念が常に自分の裡に巣くっていたと思います。その意味で、過去をもう一度やり直したいかと問われれば、ノーと即答せざるを得ません。僕が己れの過去の総括と称して、現在の思想の枝分かれの模様について書き綴る隙間に、過去の自己の想念を執拗に書いているのは、たぶん、自分とはいったいなにものなのか?という自問自答には欠かせない要素としての過去があるからだろうと思うからです。それ以外の意味はないような気がします。無論今日の、むしろ死の方がぱっくりと口を開けて自分を待ち構えている状況のもとで書くのですから、そこには当然に過去の自分の言動に対する修正も加工も加わっているだろうと思いますから、僕の過去の総括などは、正確さから云えば、かなり怪しいそれに違いありません。

しかし、今日の、あるいは残り少ないであろう、自分の未来に対する生の構え方、死に対する臨み方という視点を定めるには、自分の思念の発展の模様を書くと同時に、その根底にあったはずの過去の自己の思念も、正確無比ではなくとも書かなくてはならないとは考えています。過去の自分の姿を書き綴ったことは何度もありますし、その経験の中にはいまから思えば結構勇ましい言動も含まれているにせよ、いま、それを書くことに、どのような意味においても過去への郷愁や過去を無条件に肯定する気持ちなど一切ありません。むしろ僕にとっては、過去の延長線上に現在の、失敗作としての自己の人生が横たわっているのですから、自分の過去を書き綴る行為自体に、苦い味が伴います。いま書いていることを、随想録と命名しようが、自分史と云おうが、そんなことはどうということではなくて、この種の思いつきを書きながらも、やはり、自己の経験知からは抜け出せないにせよ、このような直截的な書き方を離れて、虚構の世界像へと、文学的な形式を借りながら発展的に昇華させない限り、自分の中の自己表出の存在理由が近いうちに消失してしまうのではないか、とは心のどこかでは感得しているのです。以前、この種のカイエ(雑記帳)の休筆宣言をしたことがありました。それは、前記したような逡巡が、書き続けようと云う意思を上回ったからに他なりません。

虚構の世界像を創造するというのは、ゴタゴタとした過去の集積を書きながら、そこに意図せずとも少しの過去の修正やら加工やらが在ったとしても、カイエという方法論においては、決して哲学者たるシモーヌ・ヴェイユを超えられないのは必然です。無論、僕などが天才の彼女と比較すべくもないのはよく承知していますが、あくまで方法論においてさえ、と云う意味です。さて、そろそろ小説空間へと踏み出す時期に来ているのかも知れません。勝手な盲想でなければの話ですが。

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長野安晃