○他者を受容するということ
人間が心の不調和を起こす最大の原因とは、自分が他者に受け入れられないという現実が、折り重なるようにして身に降りかかったことを指して云うのである。誰もが他者に評価されたいのである。極論すると、これが人が生きる意味である。評価される、という尺度の諸相は人それぞれなのはあたりまえだが、人間が集団で生きている以上、他者から評価されずして生き続けることなど不可能に近い。また他者から受容される歓びが裡にあるからこそ、自己も他者を評価することが出来るのである。このようなありふれたことに歪みが出てくると、人は心を病むのである。世に在る精神の病の根源は、自己の存在が他者に認められず、それ故に、自己の存在理由を見失うことにある。
とりわけ、現代社会においては、近所の小うるさいおばちゃんもおじいちゃんも見えない時代だと云える。現実には存在するが、彼らの価値が認められない社会になり果てて、小うるさくなること自体が困難なのである。その意味で、現代とは不幸な時代なのである。俗に云う、地域社会の崩壊である。換言すれば、現代社会とは、社会集団とは云うものの、その集団の本質は、個としての人間がバラバラに存立しているに過ぎないのである。人間が個として存在しつつ、なおかつ集団の中で自己の価値を認められることで、人は個としての輝きを増すのであって、個としての人間が、あくまで個としての意味しか感得出来なければ、生き続けるためのエネルギーが枯れ果てる。人が自死を考えはじめるのは、このような瞬間である。
現代社会を生き抜く知恵とは、他者を押し退けて、自分の我をどこまでも追及するような精神構造の中からは生まれ出ては来ないのである。果てしなき競争原理としての、現代における新自由主義的思想に染まった経済の論理は、結果的に人の精神を荒廃させる。勝ち組、負け組などと云うが、勝ち組に属したからと云って、その人間は安泰ではない。あるときの勝ち組が負け組に転落することもあり、逆に負け組が勝ち組を押し退けることもある。この種の循環は永続的に起こる現象である。ここに在るのは、他者を受容する精神ではなく、他者を排除する精神の型である。自由競争の旗頭としてのアメリカが、いまや世界でも最も多数の貧困層を抱える国なのである。自由競争主義が行き着く果てには、負け組が勝ち組になる道も閉ざされる暗黒の社会構造が出来あがる。つまりは、負け組の中で、また階層が出来る。無論勝ち組に止まっても、心休まる日はない。いつも転落の恐怖に晒されているからである。戦後以来、日本はアメリカを模範にしつつ、しかし、それなりの他者受容としての社会構造は、終身雇用制度という姿で存在したし、何より日本国憲法で、生活権の確立に関する条項が盛り込まれているのは、世界広しと云えど日本だけである。ここにこそ人間を個として尊重する集団が成立し得る根拠があるのではなかろうか。
世界中の戦争に加担、いや、加担どころか、戦争を起しては自国の死の商人たちを富ませるような、病んだアメリカをいまさらながら真似てどうするというのだろうか?病めるアメリカの模倣のツケがいまの日本を苦しめているのではないか。
人間が幸せになることは、決して難しいことではないだろう。他者を受容して、個が輝きを増す社会であれば、それでよいのである。もはや、真似るべき他国などない。現代に通じるムラ社会を創造することが、明日の社会を構築するべき指標である。日本国憲法、大いに生かせばよい。それをアメリカに押しつけられた憲法などと云う輩こそが、アメリカさまさまなのである。他者を受容し得る社会としての日本が、これからの進むべき道である。決して平坦ではないが、光は見えている。そこへ向かおうではないか。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人間が心の不調和を起こす最大の原因とは、自分が他者に受け入れられないという現実が、折り重なるようにして身に降りかかったことを指して云うのである。誰もが他者に評価されたいのである。極論すると、これが人が生きる意味である。評価される、という尺度の諸相は人それぞれなのはあたりまえだが、人間が集団で生きている以上、他者から評価されずして生き続けることなど不可能に近い。また他者から受容される歓びが裡にあるからこそ、自己も他者を評価することが出来るのである。このようなありふれたことに歪みが出てくると、人は心を病むのである。世に在る精神の病の根源は、自己の存在が他者に認められず、それ故に、自己の存在理由を見失うことにある。
とりわけ、現代社会においては、近所の小うるさいおばちゃんもおじいちゃんも見えない時代だと云える。現実には存在するが、彼らの価値が認められない社会になり果てて、小うるさくなること自体が困難なのである。その意味で、現代とは不幸な時代なのである。俗に云う、地域社会の崩壊である。換言すれば、現代社会とは、社会集団とは云うものの、その集団の本質は、個としての人間がバラバラに存立しているに過ぎないのである。人間が個として存在しつつ、なおかつ集団の中で自己の価値を認められることで、人は個としての輝きを増すのであって、個としての人間が、あくまで個としての意味しか感得出来なければ、生き続けるためのエネルギーが枯れ果てる。人が自死を考えはじめるのは、このような瞬間である。
現代社会を生き抜く知恵とは、他者を押し退けて、自分の我をどこまでも追及するような精神構造の中からは生まれ出ては来ないのである。果てしなき競争原理としての、現代における新自由主義的思想に染まった経済の論理は、結果的に人の精神を荒廃させる。勝ち組、負け組などと云うが、勝ち組に属したからと云って、その人間は安泰ではない。あるときの勝ち組が負け組に転落することもあり、逆に負け組が勝ち組を押し退けることもある。この種の循環は永続的に起こる現象である。ここに在るのは、他者を受容する精神ではなく、他者を排除する精神の型である。自由競争の旗頭としてのアメリカが、いまや世界でも最も多数の貧困層を抱える国なのである。自由競争主義が行き着く果てには、負け組が勝ち組になる道も閉ざされる暗黒の社会構造が出来あがる。つまりは、負け組の中で、また階層が出来る。無論勝ち組に止まっても、心休まる日はない。いつも転落の恐怖に晒されているからである。戦後以来、日本はアメリカを模範にしつつ、しかし、それなりの他者受容としての社会構造は、終身雇用制度という姿で存在したし、何より日本国憲法で、生活権の確立に関する条項が盛り込まれているのは、世界広しと云えど日本だけである。ここにこそ人間を個として尊重する集団が成立し得る根拠があるのではなかろうか。
世界中の戦争に加担、いや、加担どころか、戦争を起しては自国の死の商人たちを富ませるような、病んだアメリカをいまさらながら真似てどうするというのだろうか?病めるアメリカの模倣のツケがいまの日本を苦しめているのではないか。
人間が幸せになることは、決して難しいことではないだろう。他者を受容して、個が輝きを増す社会であれば、それでよいのである。もはや、真似るべき他国などない。現代に通じるムラ社会を創造することが、明日の社会を構築するべき指標である。日本国憲法、大いに生かせばよい。それをアメリカに押しつけられた憲法などと云う輩こそが、アメリカさまさまなのである。他者を受容し得る社会としての日本が、これからの進むべき道である。決して平坦ではないが、光は見えている。そこへ向かおうではないか。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃